藤原帰一客員教授 朝日新聞 (時事小言) 排除される多様性と非白人 暴力の時代へ、向かう米
アメリカ・ファーストを訴える第2期トランプ政権は国際関係の安定を揺るがしている。だが高関税政策よりも私が衝撃を受けるのは、トランプ政権の下における人種・民族による差別と迫害である。
第一にあげるべきは「不法移民」の国外退去だ。トランプ政権は、憲法で保障されたはずの出生地主義を排除し、「不法移民」の子であれば米国で生まれた場合でも「不法移民」にされてしまった。
さらに移民税関捜査局(ICE)は、重大な犯罪歴のない住民ばかりか、在留資格を持つ人に対しても拘束と強制送還を繰り返している。「不法」であるか否かを問わず捕まえられ、国外に追い出されるのである。
政府への抗議行動が広がるなか、シカゴやポートランドなどでは、州知事の反対を押し切って、海兵隊や他の州の州兵も送り込まれた。法にのっとる警察力の行使は法を顧みない権力行使に変わってしまった。
米国に居住する法的資格のない住民の国外退去だけならこれまでの米国政治と違いはない。住民の拘束と退去の手続きが適法である限り、強制送還が法の支配に反するともいえない。
しかし、「不法移民」の排除は既に米国在留資格を持つ移民一般の排除に広がり、排除される移民のほとんどが白人ではない。トランプ政権の「不法移民」排除は、法の支配に反するばかりでなく、白人ではない米国国民の排斥であり、人種・民族による差別と迫害であると考えるほかはない。
いまに始まったことではない、制度的人種差別は米国政治の特徴だとお考えになるだろうか。この問いに対する私の答えは少し微妙なものだ。
親の仕事のために米国に住んだ1960年代の初め、私は日本人であるために小学校でいじめられた。イタリアから来た英語の不自由な生徒も、ユダヤ系の生徒もいじめられた。アフリカ系やヒスパニックの生徒はごく少なかったが、知る限り学校でただ一人のアフリカ系の生徒もいじめられた。
大学院に留学した80年代には国籍や肌の色を意識するようなことが少なかった。それでも小学生の経験のため、米国が人種差別を克服したと思うことはなかった。
90年代中頃、米国に家族で住んだとき、子どもたちがいじめや差別を受けているように見えなかった。私の目に見えないところで何が起こっているのかわからないという恐れはあったものの、米国は変わったかもしれないと思ったのはその時だ。バラク・オバマが大統領に当選したときにはここまで変わったのかと驚いた。だが、ほんとうに変わったのか、差別は続いているのではないかという小さな疑問も胸の中に残っていた。
いま振り返ると、オバマ政権の誕生は人種・民族による差別が米国で拡大するきっかけを与えた。大統領となる前のトランプがオバマはケニア人だと主張し続けたことはよく知られている。このまま移民を受け入れれば国民の多数派が白人から非白人に置き換えられてしまうのではないか。この「置き換え」理論、あるいは「置き換え」の恐怖が、「不法移民」排除を支えていった。
人種、性別、民族、宗教の違いを乗り越えた社会の表現として「多様性・公平性・包摂性」、頭文字を取ってDEIと呼ばれる規範原則があるが、トランプ政権の下ではDEIは排除すべきものとなった。連邦政府人員削減の過程でもDEIに基づいて雇用されたと見なされた職員がターゲットとされた。
DEI排除は、人種・性別・民族・宗教の多様性の排除であり、白人の男性の持つ力の復活にほかならない。オバマ政権誕生から16年を経て、米国は白人優位と男性優位を公然と認める社会に変わった。
ケネディ政権のころの63年、アフリカ系の作家ジェームズ・ボールドウィンはその著書「次は火だ」で、人種対立の放置は暴力を招くと訴えた。ボールドウィンの表現を公民権運動の急進化、アフリカ系国民による白人に対する暴力という意味にとってはならない。公民権運動の活動家メドガー・エバーズ、マルコムX、そしてキング牧師が殺されたことからわかるように、60年代後半の米国では公民権拡大を排除する白人の暴力が公民権運動の急進化と同時に展開した。
多様性、公平性、包摂性は空疎なかけ声ではない。社会における多様性を排除すれば法の支配の後退と政治の暴力化が避けられないからだ。現在の米国は、ちょうど歴史を逆回しにするように、60年代後半の暴力と荒廃に向かっている。トランプ政権の下で、米国は自分の首を絞めようとしている。(順天堂大学特任教授・国際政治)
*この文章は朝日新聞夕刊『時事小言』に2025年10月15日に掲載されたものです。