世界の行方を問う ー岐路に立つ国際秩序と地球環境ー

  • 日程:
    2019年11月24日(日)
  • 時間:
    13:00 - 17:40
  • 会場:
    東京大学本郷キャンパス 伊藤国際学術研究センターB2F 伊藤謝恩ホール
  • 主催:

    地球システム・倫理学会
    科学研究費補助金基盤研究(A)「気候変動と水資源をめぐる国際政治のネクサス ―安全保障とSDGsの視覚から」

  • 共催:

    東京大学未来ビジョン研究センター

定員に達したため申込みを締め切りました。
概要

民主主義、自由市場主義、リベラル・デモクラシーという、人類が築いてきた理念と秩序の体系がいま揺らいでいる。既に先進国でリベラル・デモクラシーに反する政策を唱えるリーダーが選ばれた。新興大国は地政学的野心を露わにし、地域紛争も再燃している。人間の非合理性の主張やリアリズムへ振り子の振れを前にして、リベラル・デモクラシーは秩序の回復に向けた自己修正ができるのか、その真価が問われている。さらに、地球環境の変化が緊急に対処すべき深刻な危機を招いている。まさにこれまでの人間社会の秩序の粋を超えた概念を秩序の枠の外ではなく「内部化」する必要に迫られていると言うべきだろう。それでは、リベラル・デモクラシーが揺らぎ、しかも地球環境の変動にさらされている現在、世界秩序はどこに向かうのだろうか。権力と経済の利害が錯綜し、提起される構想もモラルの復権とAI(人工知能)への依存との二極に分かれるなかにおいて、これらの困難な課題を解く叡智はあるのだろうか。世界秩序の行方という大がかりなテーマを敢えて設定する理由は以上のものである。
本シンポジウムは、最先端の知見を結集し、内外に発信することによって、世界の良心に訴える。

プログラム
  • 13:00-13:15
    開会挨拶

    近藤 誠一 地球システム・倫理学会会長

  • 13:15-14:30
    基調報告

    小宮山 宏 株式会社三菱総合研究所理事長
    テーマ「希望はある~プラチナ社会へのイノベーション~」

  • 14:45-17:30
    シンポジウム「世界の行方を問う -岐路に立つ国際秩序と地球環境-」パネルディスカッション

    (パネリスト)

    藤原 帰一 東京大学大学院 教授

    川勝 平太 静岡県知事

    佐々木 瑞枝 武蔵野大学 名誉教授

    鬼頭 秀一 星槎大学 副学長

    羽田 正 東京大学 副学長

    (コメンテーター)

    服部 英二 元ユネスコ 事務局長官房特別参与

  • 17:30-17:40
    閉会挨拶
  • 18:00 ‒ 20:00
    懇親会

    希望者のみ (会費5,000円)

パンフレット

開会あいさつ:近藤誠一 地球システム・倫理学会会長

開会に際して近藤会長は、人類の文明体系が、自然の生命体系に破壊的なインパクトを与えていることへの憂慮を示し、そうした現状の原因、そして解決策を総合的に究明・共有して協働することが本学会の目的であると述べた。その上で、それぞれ別の定義を持つ3つの世界について説明した。46億年蓄積された生態系などの「自然世界」は、地球環境のすべての基礎であった。その上に人類は、技術革命や産業革命を経て「物質主義世界」を作り出し、さらにコンピュータと“0/1”のみで表される「アルゴリズム世界」を定義した。そして物質主義やアルゴリズムは、我々がマネージできるはるか上のスピードで発展・暴走しており、人類は自らで作ったこの2つの世界の統治もできず、元々あった世界の基礎たる自然世界も破壊しており、状況は芳しくない。こうした問題を解決するため、様々な問題を連関させて考える大局観、そして自らの立ち位置を把握する座標軸、この2つを持って生きてゆかねばならないと近藤会長は語った。

基調講演:小宮山宏 株式会社三菱総合研究所理事長

小宮山氏は、近藤会長が述べたように様々な問題を抱える現代を、「プラチナ社会」という概念を用いて切り開いていくという考え方を示した。プラチナ社会とは、「すべてのリソースに人々が十全にアクセスでき、それでいて地球の未来は持続的に豊かであり、あらゆる人々の自己実現が可能になった社会」である。小宮山氏はこの理想を必ず現実にすることができると信じていると語った。小宮山氏の研究内容は、社会問題の周りに自由主義的なビジネスを作り上げることである。例えば「歴史的な」雨が毎年やって来たり、高齢化社会が進んだりという問題が存在するが、その問題の解決手段をビジネスに落とし込む、というものである。

一つの例が、静岡県の三島にある源兵衛川に見られる。源兵衛川はかつて富士山の伏流水によって潤沢かつ清廉な水源を誇ったが、高度経済成長期における産業の爆発的発展により、10年でドブ川になってしまった。そこから、大学のメンバー・NPO・さらに企業も加わり水質を再生した。かつての美しさを取り戻したのみならず、観光資源として生まれ変わり、毎年多くの観光客を呼び込めるようになるという副産物を得た。エコロジーを守った結果、観光業というビジネスが生まれる…このモデルこそ、小宮氏の描くプラチナ社会のあり方である。

このような成功例をより多くの産業に広めていかねばならない、と小宮山氏は提唱する。最たる例が林業である。高度経済成長期中、無計画に植えられた人工林にはそれきり手が加えられることがなく、森として弱い状態になっているため、雨が降れば土砂崩れ、地震が起きれば地滑りの原因となっている。それらを解決するため、現代の大規模機械化や、テクノロジーによる情報化を用いて山林のメンテナンスに適用すれば、5兆円の産業と、50万人の新たな雇用を生み出すという試算が出ている。こうした林業の発展は、地方創生の元にもなる。出生率が低下している間接的な要因として、働き口が都心部に集中していることが挙げられ、帰郷するインセンティブがないことは問題である。林業に新たなビジネスを作ることは、若者が地方にUターンする大きな動機となるはずである。

経済効果のみならず、資源とエネルギーの問題にも「プラチナ社会」は解決策を提供する。モノが飽和した現代社会において、様々な商品の需要がかつてほどは伸びず、どれも一定となりつつある。それはすなわち、作られた商品が一定の期間の使用を経て壊され、再利用されているということを意味する。自動車は年に500万台が廃車になり、溶かされて鉄資源となる。鉄資源の飽和、完全再生産を表す基準は、一人当たり10トン前後の鉄を社会が保有する状態であるが、2025年には世界全体で一人当たり保有量が8.5トンとなる。この瞬間、世界の鉄鉱山は必要なくなり、すべて再利用の鉄で賄えるようになる。資源に乏しい日本にとって、これは望むべき未来といえる。

エネルギーの消費量も年々減っている。日本においては毎年1.5%ずつ減少し、さらに太陽光や風力といった再生可能エネルギーによる電気が今や最も安い電力源として売買されている時代である。太陽光発電の施設は、初期投資してしまえば、30年以上経っても6%程度しか発電効率が劣化しない。それにもかかわらず、既存のエネルギー生産者にとって不都合な真実であるがゆえに大々的に報じられることはなく、人々は原子力や火力の発電に頼り続けてしまう。
プラチナ社会のビジョンを推し進めれば、金属資源は都市鉱山に、化石資源は再生可能エネルギーに取って代わり、輸入に依存してきた日本が資源の完全自給を達成できると小宮山氏は推測する。これに前述の林業イノベーションが加われば、木材において日本は大輸出国にまでなれる。

次にフォーカスするのは「超大学」という視点である。医療現場を例にとり小宮山氏は説明した。少子高齢化によって膨れ上がる医療費を考えると、若者の負担を増やすという一本道しか残らなくなってしまう。この現状を打破するためには、「介護の負担」という視点ではなく「高齢者一人ひとりの自立を促す社会」にすることに目を向けるべきである。また、医者側の視点に立つと、従来型の「診断、病因解明、治療」という構造で診断しきれない、認知症やうつ病といった難しい病気に立ち向かう困難が現場各地で生じている。複数の病因を総合的に勘案するために、ビックデータ・統計を用いて処方のヒントとすることが必要である。

これらの着眼点を生かして活動を実施しているのが、弘前大学である。毎年1000人以上、2000項目以上のデータを毎年蓄積している弘前大学では、例えばおとな一人が三年後に糖尿病になる可能性を、相関係数0.93という極めて高い精度で調べることができる。また、脳の研究が進んでいるため、脳波で実際の手や足と同様に動くロボットスーツの開発も始まっている。弘前は一地方都市であり、データサイエンティストの数に限りがあるため、東大などから研究者が多く招かれている。学生数も多く、女性も様々な企業から出向してきている環境は、「健康まつり」と小宮山氏が評するほどエネルギーに満ちている。

現在こうしたヘルスケアの研究拠点は京都や沖縄にも広がっているが、小宮山氏は「産官学」においては大企業と大きな大学が協働して国が限られた予算を拠出するという従来型の仕組みではなく、学生も医者も地元の人々も巻き込む、「超大学」と呼ぶべき結びつきの形を提案している。何か行動を起こそうとした際に、特定分野における最先端の知があることが、大学は大きな強みである。そして何より、優秀で気概にあふれた若い学生たちのパワーが魅力的である。これからは彼らにこそ積極的な機会が与えられるべきであろうと小宮山氏は語った。

最後に小宮山氏は、現在の日本の社会構造を説明した。イノベーションという言葉を正しく意味を捉えられている人は必ずしも多くない。「技術革新」「ビジネスモデルの設定」「社会への実装」という3段構えで初めて「イノベーション」と呼ぶにふさわしいプロセスになる。日本はこれまでイノベーションという言葉を用いて多くの「技術革新」、つまり最初のステップを進めてきた。しかし、どの国よりも「社会実装」の面が脆弱で、これが原因で真のイノベーションを広げられていない。

なぜ日本だけ実装がうまくいかないのか、それは社会全体に、利益団体を中心とした閉鎖的な気風が広がっているからである。例えば、医療ベンチャーが満足に実装できないのは医師会の保守主義があるからで、ウーバーが苦戦しているのはタクシー業界が変化を拒むためである。しかし、必要に迫られれば様々なアクターが動き出すということを、冒頭に挙げた林業の例を用いて小宮山氏は説明した。現在、林業の5000億円の売上のうち、補助金が3000億円分を負担している。先祖から続いた林業をやめるわけにはいかない、そのモチベーションだけでかろうじて動いているが、もはや収益化もままならない。この事態を受け、林野庁が木や山の権利条件を緩和し、木材利用のハードルを下げたり、それに呼応して木造建築に関する議員連盟も100人規模で誕生したりと、状況は着実に改善しています。ここに先述したデータサイエンスを投入できれば、新たなビジネスが生まれ、経済も豊かになるであろう。

まず社会に渦巻く実態・問題を捉え、それを解決するために学問や技術が生まれる。その土壌に大学を使い、そのために年代・業種を問わずあらゆる人々が参画する。こうした層の厚い構造を作り上げた先に、小宮山先生の目指す「プラチナ社会」がある。今までの人文科学を持って来れば何かが良くなる、という夢物語を語るのではなく、一人ひとりがより良い未来を目指して新しい概念に挑戦する、その前向きな人類の意思こそがこれからの世界を変えて行くと、小宮山氏は締めくくった。

パネルトーク

パネリスト1.川勝 平太 静岡県知事(ビデオメッセージ)

川勝氏は、日本は地球の環境・文化の集約地であるという自身の考えを説明した。地球社会は西洋、東洋と見事な文明を作り上げたが、それらはシルクロードをはじめとするルートを辿り、中国の儒教や仏教からギリシア哲学、さらにはゾロアスター教まで、すべて日本にたどり着いた。地理的にも、亜寒帯から亜熱帯までに広がっている日本は、住みやすい上に地球人類の生息環境のミニチュアとも言える。
今、静岡県では産業発展のシンボルとも呼べるリニア新幹線が開通しようとしている。建設の途中では、多様な生態系が評価されてエコパークになった南アルプスを守るのか、リニアの経路を作るのかという問題が浮上したが、これからの時代はこうした問題を二者択一で捉えるのではなく、両方とも大事にしようとする気概こそが大事である。日本古来に伝わる「和」とは単なる足し算だけではなく、あらゆる可能性を考慮する姿勢である。様々な「和」をもって、日本の旧名でもある「大和」を目指して行くべきである。

パネリスト2.羽田正 東京大学副学長

羽田氏は、世界史の視点から現代社会を分析した。現在、私たちはいわゆる「主権国家体制」を前提条件として国際政治を語っている。しかし、同じ「主権国家体制」であったとしても、100年前、200年前、あるいはウェストファリア条約締結時まで遡ると、その様相は大きく異なっている。例えば1960年までは主権国家体制といえども、いわゆる「帝国主義」の時代であり、世界各地での植民地支配は当たり前であった。しかし、アジアやアフリカ各国の独立によって植民地支配は否定され、現代の国際連合などを形作る、「一つひとつの国が独立した状態という主権国家体制」が前提条件として出来上がった。

そして今、国境を超えて動く多くの難民や少数民族に対し、主権国家が責任を持てない状況になっており、それに対して多くの国々・人々が「異常事態」だと悲観している。またITの進展もあり、情報収集や利用において、地理的な国境は意味を失いつつある。しかしこの変化は、「一つひとつの国が独立した状態という主権国家体制」が1960年に出来たばかり、であることを考えれば不思議ではない。また新たな基準を持った主権国家体制ができて当然である。あらゆる「前提条件」を再考する余地が出てくる、捉え方において多様性に満ちていく世界となっていくだろうと、未来像を語った。

パネリスト3.鬼頭 秀一  星槎大学副学長

鬼頭氏は環境倫理の立場から現代社会を分析した。近代以降の国際社会は継続的に環境問題を認識してきた。最初に捉えられた「環境倫理1.0」は、環境と経済をトレードオフの枠組みで説明し、人間と自然を対立させる考え方である。続いて、冷戦が終わり国際協調が始まると、環境と経済に加えて、生物多様性や、南北問題、先住民の権利問題などの社会的な課題を考慮に入れた三極構造が新たな枠組みとして捉えられ、社会的構成・社会的包摂が考慮された「環境倫理2.0」が広まっていった。「環境倫理2.0」の集大成が持続可能な開発目標(SDGs)であった。SDGsは先進国も途上国も協働して前へ進めていく構造になっているところに意味がある。

ところがSDGsも、最近は実際の効力を失いつつあるのではないか。SDGsを唱えれば、良いことをした気分になって、自己満足が蔓延しているのではないか。加えて、17のそれぞれの目標が要素還元式であり、どれかをやれば良い、という発想が広がってしまっているのも問題ある。時代はグローバリズムからナショナリズムへと退化し、トランプ大統領のパリ協定離脱に始まり、国際協調の流れが危うくなりつつある。それにもかかわらず、世界的な災害は毎年破壊力を増しており、対策を国際的に講じなくてはならないのも現状である。

この状況に鑑みて「環境倫理3.0」の策定が必要になる。「環境倫理2.0」では、環境(自然)、経済(市場)、社会(生活)の三極構造でした。しかし実際の世界では、特に市場と生活の間に、「非市場的領域」、すなわち貨幣によらない経済、あるいは人との交流が存在している。この領域は特に地方に顕著に現れるが、そうした領域がグローバリズムで失われつつあり、これが結果として環境の問題にもつながっている。この「非市場的領域」を確保して、人々の間に根付く、形のない「価値」が守られる社会や経済を作っていくことこそが、本当に持続可能な環境を約束する「環境倫理3.0」になりうると説明した。

パネリスト4.佐々木瑞枝 武蔵野大学名誉教授

佐々木氏は言語学習の面から現代社会を分析した。SDGsの理念は「誰も取り残さない」であるが、日本語学習においては多くの外国人が置き去りになっている。本年、日本では、「日本語教育の推進に関する法律」が制定されたが、日本語教育のあるべき姿を示したに過ぎず、新体制に向けての教員養成、教材開発などは今後の課題となっている。
「言語学習こそ深層学習のAIに任せれば良い」という考え方もあるが、AIは「長文読解に弱く、翻訳作業も人間の手打ち作業の積み重ねによる」(新井紀子)と指摘されている。

AI開発は第3次局面を迎えており、深層学習によって進化したAIが囲碁・将棋などのゲーム分野で大活躍している。しかし、言語学習の世界ではそうした特定領域の能力ではなく、総合力が必要である。初級レベルであってもAIに「日本語のルール」を専門家の観点からきめ細かく教え込まないと誤用・誤訳が生じる。例えば「〜ところ」という表現では、その前に来る動詞のテンスによって意味が変わるというルールがある。「食べるところです」は「食べる」直前、「食べているところです」は「食べる」最中、「食べたところです」は「食べる」動作の直後を、それぞれ表している。また、「こんにちは」という挨拶は家族には使わないといったルールもある。

佐々木氏は、日本語学習では「日本人が無意識のうちに使い分けている」こうした日本語のルールを意識化してAIに教えこむ必要があることを指摘し、日本語学習の基準を明確化し、新たな教材を開発するとともに、それを実際の教育現場で生かせる教師を養成するという課題を提起した。

コメンテーター.服部英二 元ユネスコ事務局長官房特別参

服部氏は、与えられた8分ではパネリスト全員の発言にコメントできないとしつつ、羽田氏の指摘した「主権国家体制」に注目、地球環境全体が危機にさらされている現在、UNESCOの世界遺産の考えも国境を越える必要がある。本来「人類の共有遺産」を守ろうとの意図で発足した世界遺産条約の理念に立ち返り、空気も水も母なる地球を循環していることに思いを馳せれば、自国の遺産のみの登録を目指すのではなく、例えばアマゾンの熱帯雨林を世界自然遺産に登録しようと日本が世界に呼びかけてもいいのではないか、と述べた。

質疑応答

コメンテーターの服部英二元ユネスコ事務局長官房特別参与が各パネリストのトークに対して所感を述べた後、藤原帰一東京大学大学院教授のモデレーションによって質疑応答セッションが行われた。ディスカッションの一部は以下の通り。

質問:主権国家という概念が可変的なものであるならば、イデオロギー化したグローバリズムに与することなく、それでいてネイションステート(国民国家)の考え方に拘泥するわけでもない、そういう議論の組み立て方の可能性についてどうお考えか。

回答:例えば日本の歴史観は、世界共通認識のもとにあるわけではない。私たち独自の立場性、知の体系があり、これを海外の人と積極的に交わしていかねばならない。それぞれの国民がそれぞれの「ナラティブ(語り)」を持っていることを認識することが大切だ。既存の歴史認識だけではなく、新しいナラティブも生まれ出している。フランスのかつてのフランス史は18世紀以来のものであって、後から入ってきた移民たちは同化することが難しい。彼らをも包含した新しいナラティブを作らねばならないと思って行動している人たちも多い。日本もそうなるのではないか。これだけ外国人が増えて、従来の日本史観で果たして通用するのだろうか。お互いを理解することが一番大事だが、その際にみんな地球の住民だという、その帰属意識をわかった上で、国民の物語を理解し、過度に一般化しない。そういう歴史の捉え方は大切だろうと考えている。

コメント兼質問:外務省で長らく仕事をしていた時に痛感したのは、「中国はこれからの経済が強力である」ということだった。やがてかの国は政治、軍事に力を及ぼし、そして「文化」の力を使うであろう、中国の「新しい世界」を打ち出してくるであろうと直感的に思っていた。私たち日本人はその時何を言えるのだろうか。日本は西欧リベラリズムと同じで良いのだろうか。現在、哲学の研究では、西田幾多郎の考えの中に「禅」を見出し、平安仏教を至高とした、無から始まる哲学観が存在する。その中では「和」と書いて「やわらぎ」の文化が語られた。それは、一つの概念や価値観で過度な一般化をしないということではないか。今の世の中は「和らぎ」の逆になっている。デジタル革命や物質主義によって世界は真二つになっていることは、今回のセッションで明らかになった通りであろう。では和らぎの外交を掲げて日本は一体、何かできるのか。そしてアメリカと中国を並べたとき、両者から「和らぎの外交」に対して理解を得られるのか。中国はこの「和らぎ」という考えに便乗しようとしている現状もあるだろう。また、近代の人間の歴史はまさしく自然を外に押し出してしまった過去ともいえるが、日本における自然と私たちの関係は、鎌倉仏教の少し前にさかのぼれば、天台宗における「草木国土、悉皆成仏」。この思想が何より根幹にあると思っている。この考えの是非をおうかがいしたい。

回答1:日本が貢献できる価値観として、たとえば大阪万博の標語は「人類の進歩と調和」であり、「調和」の概念を提唱したのは西田であった。ハーバーマスとデリダはイラク戦争に際して、デモクラシーの要素は「他者の容認」と唱えたが、アメリカでデモクラシーが語られるときに、他者の容認が要素として語られることはごくわずかであろう。しかし、かつてメイフラワー号の時代から、他者や他宗教を容認することからアメリカのデモクラシーが始まっていたことを思い出さねばならない。今、資本主義の優位、西欧社会の優位という考えは、アメリカの国内から壊れている。その先にいったい何が待っているのか。「共存」という言葉を我々はすぐに使いがちだが、それは他者の容認が前提となる。

中国が「やわらぎ」に乗ってくるという考えには同感である。中国は独自な世界観を持っていて、そのせいで多くの外国から「価値観が違うからつぶさねば」という恐怖感を味わっている。だから様々な他者を包含する「和らぎ」を求めていて、日本の考えに賛成しているのも事実である。西田哲学は日本文化に沈み込みながらも、他方で多様性を追求して行った。意義深いものがあるだろう。
他者の容認を取り除いた先に、何が残るのか。他者によって気にかけられない屈辱、他者によってつぶされかねない恐怖。そこから怒りが生まれて、力によるデモなど、デタラメな無秩序が世界各地で発生している。「リベラルインターナショナリズム」という言葉が、もはや答えとして意味をなさない時代になったのは確かだろう。

回答2:ユニバーサルとは、一つに向かうという意味。その「一つ」が問題。その「一つ」に立てられた当初の目標は何であったか。それは「理性的、男性的、西洋的」なものであった。そしてそれに属さない全ての文明が「周縁化」された。オリエンタリズムという言葉がかつてあった。これは「異国」主義であって他者をそのままに尊重している考えではない。ユネスコで満場一致で可決された「文化の多様性に関する宣言」の第1条が例である。生物の多様性が生態系の維持に必須なのと同様に、人類の維持に文化の多様性は必須であるとしている。「多様性の少ない極地の生態系は弱く、これは文化についても同様のことが言える」という考えがユネスコの宣言に取り入れられている。他者がいるからこそ自分がいる。こういう認識に変わってきている。草木国土、悉皆成仏は日本独自の考えであり、中国は人間中心的の仏教という点で異なっているとも言えるだろう。

公開録画

シンポジウムの様子を動画でご覧いただけます。

1.開会のご挨拶


2.パネルディスカッション