藤原帰一教授 朝日新聞(時事小言) この戦争の出口は 「負け組」も包む国際秩序を
米ソ冷戦は戦争なしに終わった。「負け組」と呼ぶべきロシアも構成員とする新たな国際秩序はつくられず、冷戦期の西側諸国の秩序を外に広げるだけに終わった。冷戦に不戦勝を収めた欧米諸国は資本主義と民主主義の優位に溺れていた。
混乱のなかに生まれたプーチン政権は、力による支配を国内で広げ、さらにウクライナへの全面侵攻を開始した。外交交渉が重ねられ、攻撃した場合に加えられる制裁が伝えられているにもかかわらず、短期間の戦闘による全土制圧、電撃戦を試みたのである。
電撃戦による侵略を前にすれば戦争のほかに選択はないが、その戦争が世界戦争にエスカレートする危険は高い。侵略の犠牲者を放置せず、しかも戦争の拡大を阻止することはできるのか。国際政治のパンドラの箱が開いてしまった。
電撃戦の先例はナチスドイツの侵攻、それもズデーテン地方併合ではなく第2次世界大戦の開始となったポーランド侵攻である。この歴史の類推を当てはめるならズデーテン併合に相当するものがクリミア併合、ミンスク合意はミュンヘン会談になってしまう。
ナチスドイツは短期間にポーランドを制圧したが、ロシア軍の進軍は遅延した。ウクライナ軍と国民の抵抗を前に電撃戦勝利という破滅的に愚かな期待は裏切られた。緒戦に失敗したプーチン政権は破壊の規模を拡大し、市民の居住地域に攻撃を繰り返した。
プーチン政権がウクライナ制圧に成功する可能性はない。高性能兵器によって軍事的に勝利しても占領を維持できないからだ。ベトナムでもアフガニスタンでも軍事的優位にある側が支配に失敗した。ウクライナでは侵略に対する国民の結束が高く、占領が成功する可能性はさらに乏しい。
ロシア軍の戦闘意欲は低い。世界的経済制裁はロシア国民の生活を破壊し、ウクライナ占領どころかロシアに内乱と革命を招きかねない。プーチンは戦争によってウクライナばかりでなくロシアも破壊した。
だが、ウクライナが単独でロシア軍を撃退することも難しい。北大西洋条約機構(NATO)や欧州連合(EU)など世界各国はロシアに経済制裁を科し、ウクライナ軍への武器供与も拡大したが、無差別攻撃を前にしたウクライナ軍が持ちこたえる保証はない。
停戦交渉は断続的に行われているが、NATO加盟を棚上げにしてもNATOの関与抜きの停戦合意ではウクライナの安全を保証できない。戦争による犠牲がどれほど大きくても無法な侵略者との停戦合意はウクライナ国民の反発を招くだろう。停戦交渉が重ねられる一方で、自国により有利な停戦を求めて両軍が戦争を激化させる可能性が高い。
飛行禁止区域を設定するなどNATOが介入の意思を示せば戦争はエスカレートする。国際政治学における安定・不安定パラドックスは核戦力相互が抑止し合うなかで通常兵器による大規模戦争が生まれる可能性を示しているが、プーチン政権が化学兵器、あるいは核兵器を使用する危険は現実のものだ。
NATOもバイデン米政権も、戦争のエスカレーションを回避すべく、直接介入を控えてきた。核戦争は絶対に避けなければいけない以上、ウクライナ国民を侵略の犠牲とする可能性を持つとしても、私はこの方針を支持する。だが、プーチン政権は、核兵器や化学兵器使用で脅すことでNATO諸国の関与を排除し、ウクライナに壊滅的打撃を加えてロシア政府に有利な停戦合意を引き出そうとしている。
その結果生まれるのは、停戦交渉と大規模な破壊・殺戮(さつりく)が同時に、しかも長期にわたって継続する状況である。突き放して言えば、プーチン政権が自壊するまで、この残酷なゲームは続くだろう。
この戦争の出口は何だろうか。日本国憲法前文は第2次世界大戦後の日本の原則であるとともに、大戦後の世界をつくる原理の宣言でもあった。そして、プーチン政権は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会とは対極にある存在だ。
プーチン政権は自滅に向かっている。だが、プーチン政権とロシア国民は同じではない。戦争の終結は国際秩序を形成する機会だ。日本国憲法は軍国主義の日本を世界との協力の中に再統合する貴重なステップだった。戦争と内乱の後には、今度こそ、冷戦終結時につくるべきであった「負け組」も参加する秩序、日本国憲法前文が示すような世界各国の国民もロシア国民も受け入れることのできるような力の支配ではない国際秩序をつくらなければならない。(国際政治学者)
*この文章は朝日新聞夕刊『時事小言』に2022年3月16日に掲載されたものです。