藤原帰一客員教授 朝日新聞 (時事小言) 欧米か非欧米か、日本はどちらの一員 区別は、不当な単純化

ウクライナとガザの戦争が続いている。二つの戦争のために国際政治がさらに不安定となるなかで、気になる問いがある。日本は西側諸国の一員なのか。それとも、非欧米諸国の一員なのだろうか。
日本は価値を共有する国だなどと欧米諸国の人から呼ばれると、どうも居心地が悪い。米国や西欧諸国の人々は、日本を価値を共有する国だと本当に考えているのか。言うことを聞かせるために頭をなでられるような気持ちの悪さがつきまとう。
日本政府が欧米諸国と価値を共有する民主主義国と自称するときも居心地が悪い。政治体制としては日本は民主主義に分類できる。だが、自民党一党優位の続く日本政治が民主的だとは私には考えにくい。民主主義ではない国家を他者として突き放すためにこの言葉が用いられている疑いも残る。
ひねくれた見方をする背景には子どもの時に米国で暮らした経験があるのだろう。小学校で私はよそ者だった。日本人だからか生意気だからなのかはわからないが、差別もいじめも受けた。大学院に留学した1980年代の米国は、小学校に通った60年代と変わり、差別を意識することはなかった。それでも他者として見られている意識が、皮膚感覚のように私につきまとった。

だが、欧米と異なるアジアの一員として日本を捉えることもためらわれる。国際秩序が欧米地域の優位の下で構築されてきたとしても、国際政治における規範は欧米のものに過ぎないと切り捨てることは、私にはできない。
第1次世界大戦後の1918年、近衛文麿は「英米本位の平和主義を排す」と題する文章で、「英米人の平和は自己に都合よき現状維持」に「人道の美名を冠したるもの」であると喝破した。
いまだってそうだ、1918年だけではないと思う人も多いだろう。20世紀の国際秩序に英国、そして米国のもとの覇権秩序としての性格があったことは否定できない。
だが、3度にわたって首相となった近衛のもとで盧溝橋事件後に日中戦争が拡大し、太平洋戦争直前の日米交渉が失敗したことを忘れてはならない。英米本位の世界への対抗は日本の侵略戦争と自滅をもたらした。
ロシアによる2022年のウクライナ侵攻は、現代国際政治の規範を破る、国連憲章と国際人道法の視点から容認できない侵略だった。それを非難する22年国連総会決議に日本が賛成したことは当然だった。
他方、イスラエルのガザ攻撃は、どれほどハマスによるイスラエル国民への暴力が非道であったとしても、自衛を目的とする武力行使をはるかに上回る暴力である。だが、イスラエルとハマスに人道的休戦を求める23年10月国連総会決議で、日本は棄権した。米国の決議への反対抜きに日本の棄権を理解することはできない。

ロシアのウクライナ侵攻と米中競合の中で、米国を中心とした同盟国の連携が強化されている。米国と同盟を結ぶオーストラリア、韓国、フィリピン、日本が相互の連携を強め、欧州のNATO(北大西洋条約機構)にも比すべき多国間同盟が生まれつつある。
この同盟国のつながりを、価値を共有する民主主義国の連携として見ることはできる。「リベラルな国際秩序」を自認する諸国と米国中心の同盟国がほぼ重なり合っているからだ。
しかし、この国際連携は米国を頂点とした覇権秩序としての性格も持っている。軍事力と経済力の抜きんでた米国と連携し、米国の覇権を受け入れることで安全保障と経済発展を模索する。価値やルールではなく、力と実利に基づく連携である。
ロシアや中国との対抗も、国際政治のルールを守らない国家との対抗ばかりでなく、米国中心の覇権秩序に対する脅威への対抗という側面がある。
しかし、日本外交は米国に追随するだけのものではない。24年5月10日、国連総会はパレスチナの国連加盟を支持する決議を採択した。人道的休戦決議では棄権した日本が、今回のパレスチナ加盟支持決議では賛成した。
この総会決議によってパレスチナの加盟が決まるわけではない。国連加盟勧告が安保理に提起されても米国が拒否権を行使する可能性は高い。それでも、欧米諸国だけではない世界全体の国際秩序という視点から見て、総会決議への日本の賛成は正しい選択であったと私は思う。
国際関係の基礎に覇権秩序と権力闘争があることは否定できない。しかし、欧米と非欧米などという区別も誇張に過ぎない。世界を地域に区別し、その地域を文化と結びつけて考えることは、国際政治の現実を不当に単純化することで終わってしまうだろう。(順天堂大学特任教授・国際政治)

*この文章は朝日新聞夕刊『時事小言』に2024年5月15日に掲載されたものです。