藤原帰一客員教授 朝日新聞 (時事小言) 原爆投下から80年 核に依存せぬ「平和」を
広島と長崎に原爆が投下されてから80年、核兵器が戦争で使われたことはない。では実戦における核兵器の使用はこれからも起こらないと言えるのか。そうではない、現在の国際政治はむしろ防衛政策における核兵器への依存の強化、核兵器の拡散、そして実戦使用の危険に向かっていると私は考える。
まず、核抑止について考えてみよう。核兵器によって攻撃されたなら核兵器によって反撃すると仮想敵国に対して明確に伝えている場合、その仮想敵国の核による攻撃は自滅的な選択である。ここから核保有国が互いに相手の攻撃を抑止することによって国際関係が安定し、少なくとも核戦争は回避される可能性が生まれる。相互確証破壊による相互抑止の可能性である。
だが、仮に核保有国が核兵器によって相手の攻撃を互いに抑止し、大規模な戦闘・破壊が防止されたとしても、より小規模な、核兵器を使用しない戦争が発生する可能性は残され、戦闘の可能性がむしろ高まる危険もある。核による相互抑止という安定が通常兵器による攻撃という不安定と併存するという、国際政治学において「安定・不安定パラドックス」として議論されてきた現象である。
インドとパキスタンのカーギル戦争(1999年)を始めとして「安定・不安定パラドックス」の事例は少なくない。だが、ロシアによるウクライナ侵攻は、核保有国であることをロシア政府が繰り返し言明したために、このパラドックスがこれまでになく鮮明に示されてしまった。
NATO(北大西洋条約機構)諸国が核保有国であるロシアとの直接の戦争を避けようとすればウクライナへの軍事支援を抑制しなければならず、侵略されたウクライナは見捨てられる危険がある。逆にウクライナの防衛を支えるのであればロシアに抑止されることなく、つまり核戦争を恐れることなくウクライナを支援することとなり、ロシアによる核兵器実戦使用の危険を高めてしまう。通常兵器による戦争が核戦争の可能性を招き、核抑止を覆す危険を高めてしまうのである。
さらに、核兵器を保有しない国家への核の傘の提供、拡大抑止は、核保有国相互の抑止よりも不安定であることが避けられない。拡大抑止の脆弱(ぜいじゃく)性も既に広く知られているが、NATO諸国の防衛に消極的なトランプ第2期政権の誕生によって、拡大抑止の不安定が急速に強まっている。
欧州から見た場合、米国による防衛が信頼できなければ、独自の地域防衛を模索するほかはない。これまでとは異なる拡大抑止、イギリスやフランスが核を持たないヨーロッパ諸国に核の傘を提供し、非核保有国への核兵器配備を模索するなどの検討も行われている。ベラルーシへの核兵器の提供などロシアによる核配備拡大も見逃せない。ポーランドなど核を持たないヨーロッパ諸国において独自の核開発を求める声もあがっている。
第3次世界大戦の防止を訴え、ウクライナ軍事支援に消極的であったトランプ政権は、NATO諸国の負担による米国製兵器のウクライナ提供を発表したが、対ロ政策の転換は不確実なままだ。欧州諸国の大規模な軍拡、欧州地域の新たな拡大抑止と核拡散の可能性が同時に展開されている。
核への依存と核拡散の危険は欧州に限らない。核を持つ北朝鮮は攻撃されないが核を持たないウクライナやイランは攻撃されるという残酷な対照は、核兵器開発へのインセンティブを高めてしまう。イスラエルのイラン攻撃、さらに米国のイラン核施設攻撃がイラン核開発を阻止したと考えるのはまだ早い。むしろ、IAEA(国際原子力機関)の査察を逃れてイランが核開発を進める危険が生まれたことに注意しなければならないだろう。
既に韓国では米国の核の傘に代わって独自に核を開発すべきだとする議論が広がっている。日本では核武装論はまだ少数に留(とど)まっているが、米国の核の傘の信用が低下すれば核武装への支持が広がる可能性は存在する。
核兵器廃絶は幻想だと思う人もいるだろう。だが、「安定・不安定パラドックス」や拡大抑止の限界は核に頼る「平和」の脆弱性を示している。核兵器を保有すれば安全を享受できるという判断こそが幻想に過ぎない。
第2次世界大戦の敗北から80年、日本は核を持たない選択を続けてきた。広島・長崎への原爆投下による膨大な死者と破壊がその選択を支えてきた。戦後80年を迎えたいま、私たちは被爆による犠牲を振り返り、核廃絶の必要を確認するとともに、核に頼る「平和」ではなく核への依存から脱却した平和の構築に努力しなければならない。(順天堂大学特任教授・国際政治)
*この文章は朝日新聞夕刊『時事小言』に2025年7月16日に掲載されたものです。