藤原帰一客員教授 朝日新聞 (時事小言) 政権への委任拡大 空洞化する民主政治
私は総選挙の結果にたじろいだ。
与党が大勝したからではない。世論調査のトレンドは自民党がかつてない勝利を収める可能性を示していた。問題は与党の勝利ではなく、政党支持率において優位にあるとは考えにくかった自民党になぜ国民の支持が集まったのかという点にあった。
私の支持できない政策が国民から認められたからたじろいだのでもない。そもそも、今回の総選挙でどのような政策が争われているのか、わからなかった。政府の求める安保関連3文書改定の内容も、それに対する野党の具体的批判も、私には見えなかった。ほとんどの政党が消費税減税を訴える姿は奇怪にさえ見えた。
政党に投票するのか、政策に投票するのか、それとも政治家個人に投票するのか。選挙には常に政党、政策、人という三つの選択が重なり合うが、今回の総選挙は人、それも選挙区ごとの候補者ではなく、高市早苗首相を支持するかどうかが問われた選挙だった。高市首相本人も高市政権への信任投票として総選挙をとらえているように見えた。
発足から間もない政権が信任投票を求める理由は私にはよく理解できない。だがそれ以上に、事実上の信任投票となった総選挙において与党に圧倒的な政治的支持を与えたならば、政府に対して政治権力を大幅に委任し、政治的競合を弱める結果となることが避けられない。今回の総選挙において私がたじろいだのはこの点、政治権力への委任の拡大だった。
日本に限った現象ではない。かつてアルゼンチン出身の政治学者ギジェルモ・オドンネルは、多元的民主主義の条件を備えながら権力のチェック・アンド・バランスが失われてしまった政治体制の類型として、「委任型民主主義」という概念を提起した。ラテンアメリカ諸国で民主化が進展していると信じられていた時代のなかにあって、民主政治の発展は当然のものではないと指摘したのである。
オドンネルがこの概念を提起した1994年から30年が経ち、委任型民主主義、すなわち民主政治の外見のもとにおける政府への委任と権力の集中はラテンアメリカなどの新興民主主義国ばかりでなく、欧州や米国においても政治の日常になってしまった。ナチス・ドイツにおける全権委任法のような授権法を経ることがなくても民主政治は空洞化するのである。
日本の政治ではもともと行政権力に委任された権力の幅が大きい。政権与党と野党との間において公平・公正な競争が制度的に保障されてきたと言うこともできない。そして2026年総選挙によって、政府への委任がこれまでになくひろがるだろう。私は日本が独裁に向かっているとはまだ思わないが、チェック・アンド・バランスと政治的競合がこれまでになく弱体化することは避けられないと考える。
では、なぜ高市首相が支持を集めたのだろうか。フランスの政治学者ベルナール・マナンは、主著「代表制統治の諸原理」(初版は1995年刊行)において欧州における代議制は民主主義の一形態としてではなく、本来は民主主義とは異なるはずの貴族支配と結びつくことで生まれたことを論じ、代表制民主主義の誕生を、その内部の緊張を含めて多元的に考察した。
その主著の終章で、マナンは観客民主主義という独特な概念を提起している。かつての選挙研究は有権者の社会的・経済的・文化的背景によって政治的選好を説明できたが、現在では社会・経済・文化的背景が変わらなくとも選挙結果が変わるようになった。それを説明する要因としてマナンが注目したのが、政治におけるパーソナリティーの役割の拡大だった。政治家は有権者に直接呼びかけ、世論はイベントやコミュニケーション戦略によって左右され、コミュニケーションのエキスパートが政治活動家や政党の官僚に代わる役割を果たすのである。
観客民主主義といっても、観客が政治を左右するわけではない。選挙における選択のイニシアチブは有権者ではなく政治家が握っているからである。観客民主主義における有権者は自分の利益や心情を政治に伝える主体ではなく、政治家がコミュニケーションによって操作する客体に過ぎない。代表制民主主義における政治権力への委任はさらに拡大することになる。
有権者の投じる票がなければ政治家は当選できない。しかし、有権者が政治家のコミュニケーションによって操作される対象に過ぎないのであれば、有権者が民主政治の主体だということはできない。有権者が政治家を選ぶ主体から政治家に操作される観客へと転じた時、民主政治は壊れてしまう。それを私は恐れる。(順天堂大学特任教授・国際政治)
*この文章は朝日新聞夕刊『時事小言』に2026年2月18日に掲載されたものです。