藤原帰一教授 朝日新聞(時事小言) 温暖化、戦闘に匹敵する被害 地味で苦しい作業が命救う

いまの世界ですぐ着手しなければならない課題は何だろうか。それは気候変動への対処だ、と私は考える。
地球環境の温暖化は事実なのか、ほんとうに起こっているのかなどと疑う余地は既に失われた。アメリカやオーストラリアの山火事、カナダなどの異常な気温上昇、日本各地の大型台風や集中豪雨による被害など、気候の変化が私たちの日常生活を脅かしているからだ。
地球温暖化に警鐘を鳴らしてきた指導者のひとりがドイツのメルケル首相である。今年7月、ドイツを襲った河川氾濫(はんらん)と洪水の現場を訪れたメルケルは、この被害を形容する言葉はドイツ語にないと述べた後、気候変動との戦いを急がなければならないと呼びかけた。降雨の背景に気候変動による気温上昇があるという認識である。
もちろんすべての自然災害を地球温暖化と結びつけることはできない。災厄の原因を気候変動だけに求めるなら治水の不備などが招いた人災から目を背けることにもなりかねない。それでもなお、地球環境の温暖化が人間生活の基本的な条件を壊していることは否定できない。

私が専門としているのは国際政治、それも平和・安全保障を中心とする国際関係であり、このコラムでも米中関係の緊張などごく古典的な国際紛争について取り上げてきた。だから地球環境は専門ではないのだが、地球温暖化は、武力行使を伴う戦闘と優に匹敵する被害を世界各地にもたらしている。これは国際紛争の専門家だからといって無視してよい現実ではない。
その一例にアフガニスタンを挙げることができる。アメリカのバイデン政権はアフガニスタン撤退を進め、今年8月には完全撤兵を行うと発表した。同時多発テロ事件直後の多国籍軍による軍事介入から20年、タリバーンの支配が各地に及ぶ中での撤退だから事実上の敗戦であるが、ここで注目したいのは内戦や軍事介入ばかりでなく、干ばつがアフガニスタンに繰り返し襲いかかり、人々の生活を破壊してきたことだ。
大気環境学・気象学が専門の河野仁・兵庫県立大学名誉教授によれば、アフガニスタンの干ばつを引き起こしたのは地球温暖化の影響を受けた急激な気温上昇と春の降雪量減少に伴う山の残雪喪失、春の降雨減少、気温上昇による蒸発散量の増加という三つの要因だ。アフガニスタンの人々はタリバーンの支配や大国の軍事介入に加え、地球環境の温暖化によって暮らしの安全を奪われたのである。
2019年、銃撃により非業の死を遂げた中村哲氏が力を注いだのは、アフガニスタン難民の医療に加えて、灌漑(かんがい)事業であった。水を確保することによって人々の命を救う。和平合意や兵力撤退と異なる形ではあるが、平和構築のひとつの形を見ることができる。

温室効果ガス排出を削減しようとすれば自動車や航空機など現在の社会生活で当然のように用いられる輸送手段を変える必要がある。ここからもわかるように、気候変動に対応するためには大量に資源を消費する経済から循環型経済への転換と持続可能な社会の実現が必要であり、目標達成のためには多大のコストを負担することを覚悟しなければならない。そして、社会変革のために必要とされる厖大(ぼうだい)なコストのため、地球環境の危機は広く認識されながら、各国政府の政策対応は遅れがちであった。
気候変動の影響が拡大するとともに、地球環境への取り組みの優先順位は高まった。さらに言えば、二酸化炭素排出量の削減だけが温暖化への取り組みではない。中村哲氏の努力に見られるように、温暖化阻止ばかりでなく、既に進行している気候変動がもたらす被害を最小限に抑える努力も必要だからだ。
学術研究も変わってきた。私が勤める東京大学未来ビジョン研究センターでは地球環境変動と紛争に関する共同研究を進め、このコラムもその研究に負っている。昨年にはグローバル・コモンズ・センターを開設し、人類が環境を変えてしまった時代、すなわち人新世を考え直す試みを続けている。危機にあるからこそ学術知を集約しなければならない。
アメリカがパリ協定に復帰し、主要7カ国首脳会議(G7サミット)は気候変動への対処を提言、日本政府も温室効果ガスの排出を2050年に実質ゼロとする方針を打ち出した。望ましい変化だが、温暖化への取り組みがかけ声で終わっては意味がない。気候変動を抑制するコストを自覚した上で、温暖化が現に招いている被害を少しでも減らす。政治空間で消費されるスローガンとは無縁の、まさに中村哲氏が取り組んだような地味で苦しい作業が残されている。(国際政治学者)

*この文章は朝日新聞夕刊『時事小言』に2021年7月21日に掲載されたものです。