藤原帰一教授 朝日新聞(時事小言) ウクライナ危機 瀬戸際政策、行方を注視

ウクライナ情勢が厳しい。国境に集結したロシア軍は10万を超え、ベラルーシに派遣された部隊と黒海沿岸の軍事演習を合わせると、ウクライナは3方向の軍事圧力に直面している。
ロシアのプーチン大統領はウクライナを攻撃する意思がないと繰り返し表明しているが、ロシア軍の動員が戦争を辞さない性格を持つことは疑いを入れない。国際政治では戦争の瀬戸際まで相手を追い込み、その軍事的圧力によって相手から譲歩を引き出す戦略のことを瀬戸際政策と呼ぶが、これほど露骨な瀬戸際政策は珍しい。
かつてリチャード・ネッド・ルボウが『平和と戦争の間』(Between Peace and War)で論じたように、瀬戸際政策は戦争の発生する可能性が最も高い国際危機である。瀬戸際政策をとる相手を前に譲歩すれば戦争に訴えることなく相手が成果を獲得し、譲歩を拒んだ場合に戦争が勃発する。一方的譲歩か戦争かという選択を迫られるのだから、外交による緊張緩和が難しいことは明らかだろう。

瀬戸際政策を撤回に追い込む手段のひとつが、抑止戦略の実効性だ。攻撃すれば反撃を加える明確な意思を持ち、その意思を誤解の余地なく相手に伝達すれば、相手は瀬戸際政策を撤回する可能性がある。逆に反撃する意思が弱い場合には、抑止する側の方が譲歩に追い込まれる危険が生まれてしまう。
ウクライナ危機ではロシア軍が国境を越えた場合に北大西洋条約機構(NATO)諸国がロシアに大規模な反撃を加えるかどうかが焦点となる。そして、NATO各国はウクライナへの武器供与を進めているとはいえ、ロシアとの交戦を避ける可能性が高い。
バイデン米大統領はウクライナを侵略すればロシアは大きな代償を払うことになると警告したが、これまでにとられた措置はポーランドなどNATO諸国の防衛強化であって、ウクライナに兵器は供給しても派兵していない。2014年の政変によって親ロシア派と目されたヤヌコービッチ大統領がウクライナから追放された後、ロシアはクリミアを併合し、ウクライナ東部に兵力を進めたが、この時にもNATOは軍事介入をしなかった。今回ロシアが越境攻撃すれば西側諸国が対ロ経済制裁をさらに強化することは間違いない。だが、ウクライナを防衛するために武力介入を行う公算が小さい。そして、戦争する意思がなければ抑止力を強化しても相手の行動を抑えることはできないのである。

外交目標へのコミットメントにも違いがある。NATO東方拡大を警戒するプーチン政権は、ウクライナのNATO加盟に強硬に反対してきた。国境防衛に直結するだけに、この目標へのロシアのコミットメントは強い。ウクライナのNATO加盟を明示的に排除し、同国東部に自治政府樹立を実現するまで軍事動員が続く可能性が高い。
他方、NATOは08年の首脳会議において将来のウクライナ加盟は認めたものの、ウクライナ政府の希望にもかかわらず加盟交渉は行われていない。ウクライナ東部における停戦合意が実質的に破綻した後も、NATO加盟の進展は見られない。ロシアから見れば、ウクライナ東部に独自の自治政府を樹立し、NATOにウクライナ加盟を断念させる余地があることになる。
目標へのコミットメントが違う限り、外交による危機の打開は難しい。14年紛争後にはフランスとドイツがウクライナとロシアの間に立つ、いわゆるノルマンディー方式によって停戦交渉が進められた。今回もマクロン仏大統領とショルツ独首相がウクライナ・ロシア両国と交渉を展開した。NATO加盟の先送りと東部地域自治についてウクライナ政府と協議した可能性はあり、プーチンも対話は継続すると述べたが、国境に動員された兵力はまだ残されている。
これだけを見ればプーチン政権の瀬戸際政策は成功するかに見える。だが、NATO諸国もロシアの求める譲歩を行う可能性は少ない。ロシアが受け入れるような方針を示すならウクライナの反発は避けられないが、それ以上に、瀬戸際政策を前にして譲歩すれば同盟全体の信頼性が揺らぐからだ。ウクライナと同様に西側と同盟を結んでいない台湾の問題にも波及し、中国への抑止力の低下を招く危険も無視できない。むしろ、ロシアへの警戒が強まることでNATO諸国の結束は高まるだろう。共通の敵ほど同盟を強める存在はない。
この危機は長期化する懸念が強い。臨戦態勢が続くなか、ロシアも西側同盟諸国も、経済、金融、資源供給、さらに情報操作によるもう一つの戦争の強化に走ることだろう。米中対立に加えてウクライナ危機の軍事化によって、新しい冷戦がほんとうに始まってしまった。(国際政治学者)

*この文章は朝日新聞夕刊『時事小言』に2022年2月16日に掲載されたものです。