藤原帰一客員教授 朝日新聞(時事小言) 「核の傘」依存強める西側同盟 核軍縮の努力、手放すな

ロシアのウクライナ侵略は失敗しようとしている。首都キーウ(キエフ)攻略の失敗に続いてハルキウ(ハリコフ)付近の撤退が続き、東部戦線の戦果は少ない。北大西洋条約機構(NATO)諸国の武器供給が続くウクライナ軍を前に兵士を失い武器を費消したロシア軍は、2月の侵攻以前の地点に向けて押し戻される勢いだ。
劣勢のロシアは戦争のエスカレートに訴えるだろうか。ロシアに向かい合う安全保障の体制をどうつくるべきか。どちらも核兵器を避けて考えることのできない課題である。
 
まず、プーチン政権は核兵器を使うのか。核保有国が互いに核使用を抑止するとき、通常兵器による戦争に合理性が生まれてしまう。核による反撃を辞さないというラブロフ外相やメドベージェフ前大統領の発言の根底には、この安定・不安定パラドックスがある。核問題の研究で知られるスコット・セーガンの表現を借りれば、核を盾に使って核攻撃を阻みつつ戦争を展開しているのである。
これだけなら脅しに過ぎない。では通常兵器では勝ち目がなくなったとき、核の使用に踏み切るだろうか。その可能性は否定できない。しかしウクライナの兵力を破壊する戦術的目的だけでは核を使う効用は低い。核兵器がどれほど小型で攻撃対象が近距離にあっても、核の使用は大規模殺戮(さつりく)の与える恐怖によって敵国の行動転換を図る戦略目的と切り離すことができないばかりか、西側同盟はもちろん世界すべての国を敵に回す結果を伴う。
ロシアの核兵器使用はロシア本土の安全が脅かされた場合に限られると考えてよい。ウクライナがロシア本土を攻撃しない限り、核使用の可能性は低いのである。侵略されたウクライナがロシア軍撤退を停戦条件として譲らないのは当然だが、ロシア領内への攻撃や進軍は抑制しなければならない。

次に、ロシアに向かい合う国際安全保障の体制について考えてみよう。ウクライナ侵攻によって西側同盟は結束を高め、フィンランドとスウェーデンのNATO加入も進もうとしている。ロシアの脅威に対する正当な対応であるが、西側同盟はアメリカの核戦力による拡大抑止、いわゆる核の傘に依存してきた。同盟の強化は核抑止への依存を強め、核軍縮を逆行させる危険が大きい。
何がいけないのかと思う人はいるだろう。核抑止の強化によってロシア、さらに中国の侵略に備えるべきだとする議論は少なくないからだ。だが、抑止は常に破綻(はたん)する危険を伴う。核戦略があっても通常兵器による侵略の抑止は難しい。抑止を恐れない相手に対しては戦争のほかの選択肢はない。
核抑止が破れて核戦争が起こったならば、勝者のない、あるいは勝利の意味がない破滅が待っている。だからこそ、抑止を保ちつつ核軍縮によって核抑止への依存を引き下げ、通常兵器による抑止を模索し、核の使用は核攻撃を受けた場合に限定し(唯一目的論)、さらに核兵器の拡散を阻止する国際体制を構築するなど、国際的な努力がこれまで重ねられてきた。
だが、米ソ冷戦終結後に核弾頭が大幅に削減されたとはいえ、2010年の新戦略兵器削減条約(新START)調印後の核軍縮は成果が乏しい。核兵器禁止条約の発効は核兵器の非人道性を再確認し核保有国に圧力を加える上で意義があったが、核保有国も日本も条約に署名していない。
その間にアメリカとロシアは新世代の核兵器開発を進め、中国は核戦力を飛躍的に拡充した。バイデン政権発足後アメリカとロシアは新STARTの期限延長に合意したが、ウクライナ侵攻後、米ロ交渉の展望は見えない。6月には核兵器禁止条約締約国会議、8月には核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議が予定されているが、核に頼る抑止はむしろ拡大している。
しかし、政策決定者も核戦争を恐れている。バイデン政権がNATOの直接介入を避けてきた背景には核戦争へのエスカレートを回避する意図があった。通常兵器では劣勢に追い込まれたロシアが恫喝(どうかつ)には使っても実戦での核の使用をためらう現実は、核戦争が起これば破滅が待っているという認識がロシア政府にも残されていることを示している。核戦争への恐怖がある限り核軍縮の機会は残されているのである。
プーチンの戦争はまだ終わっていない。朝鮮戦争の休戦はスターリンの死を待たなければならなかった。だが、核戦争が勃発する危険があるからこそ、核抑止の効果を過信することなく、核軍縮のために努力を続けなければならない。広島・長崎の悲劇を知る国民にとって、使命とも言うべき課題である。(国際政治学者)

*この文章は朝日新聞夕刊『時事小言』に2022年5月18日に掲載されたものです。