藤原帰一客員教授 朝日新聞(時事小言) 不安定化するユーラシア ロシア後退、中国にリスク

田中角栄首相が中国を訪問した1972年9月から50年が経とうとしている。半世紀前のキーワードは、日中友好。日本は、経済協力を中心とした中国との関係改善に力を注いだ。中国が西側諸国に対抗する軍事力を持たず、日本経済が中国より力のある時代には合理的な政策だった。
だが21世紀に入って米国と競合する世界大国になると、中国は西側諸国との協力ではなく、対立を辞さずにその「核心的利益」の実現を求める政策に転換する。国内では香港自治の破壊や新疆ウイグル自治区での強制収容など、独裁がさらに強化された。
経済的に中国に追い越され、軍事的には領土領海への脅威を前にした日本は、中国を含む国際貿易体制の維持を前提としつつ、米国との同盟を強化して中国の軍事的圧力に抗する姿勢に向かう。トランプ政権における対中政策の転換、さらにバイデン政権下の同盟強化による中国への対抗も日本政府に支持された。
日中復交の半世紀は日本の主導する日中友好に始まり、大国となった中国を脅威とする認識で終わった。友好から対抗への変化である。

安全保障の焦点は台湾だ。これまでも中国が武力によって台湾を併合する可能性は憂慮されてきたが、ロシアがウクライナに侵攻することでその懸念がさらに高まった。ペロシ米下院議長の台湾訪問に対して中国軍が軍事演習を展開した後、情勢は緊張を増している。
では近い将来に中国は台湾に侵攻するのだろうか。私は必ずしもそう考えない。電撃戦による台湾制圧を試みたなら米中戦争に発展する可能性が高いからだ。バイデン米大統領は「一つの中国」原則を放棄するかのような発言を繰り返してきたが、それらの発言は中国が台湾を攻めるなら米軍が介入する可能性を示している。ロシアのウクライナ侵攻によって中国の台湾政策が変わったと考える根拠はないが、台湾侵攻が中国にとってリスクの高い選択であるという事情は変わらない。
米ソ冷戦の時代、東西ドイツ国境は東西対立の焦点だったが、武力行使に訴えたなら米ソ戦争に発展する可能性が高く、結果としては東西の武力行使は抑止された。台湾も、近い将来の戦争勃発よりも、中国と西側同盟諸国との長期的な対立の焦点になる可能性の方が高いと考えられる。

むしろ問題はウクライナ侵攻の直接的な影響だ。勝ち目のない戦争をやめようとしないロシアがこれから軍事的・政治的に弱体化してゆくことは避けられない。ロシアの影響力によって旧ソ連地域の紛争が抑え込まれてきただけに、ロシアの弱体化は旧ソ連諸国を始めとしたユーラシア地域全体の不安定を引き起こす可能性がある。
ユーラシア地域を網羅する安全保障枠組みに上海協力機構(SCO)がある。その首脳会議に出席したプーチン大統領は習近平(シーチンピン)国家主席と首脳会談を行ったものの、中国からウクライナ侵攻への支持を引き出すことはできなかった。経済制裁下のロシアは中国に原油を売らざるを得ないが、弱体化するロシアにどこまで肩入れをするのか、主導権を握るのは中国である。これだけを見ればウクライナ侵攻が中国台頭をさらに強めたようにも見える。
だが、ロシアの後退とともに旧ソ連諸国では紛争が拡大している。アゼルバイジャンはアルメニアへの攻撃を再開し、タジキスタンもキルギスに攻撃を加えた。どれもウクライナ侵攻以前から存在した紛争であるが、ウクライナ侵攻によってロシアの影響力が後退したことを機会に戦火が再燃したと考えてよい。
SCOの原型である首脳会議(上海ファイブ)が96年に始まった背景には、米ソ冷戦後における地域の不安定な政情があった。中国がタジキスタンと国境を接していることはいうまでもない。アフガニスタンやパキスタンなどただでさえ政情不安定な諸国を抱えるユーラシア地域がさらに不安定となれば、中国が地域の不安定に引きずり込まれる可能性が生まれる。
SCO首脳会議は多極的世界秩序の構築を共同宣言で訴えて閉幕した。アメリカ主導の世界秩序に対抗するかのような宣言であるが、会議の直前にキルギスとタジキスタンの紛争が再燃することで、上海協力機構が紛争解決において持つ限界を露呈した。
日中復交から50年を経て、ロシアに対する優位を獲得し、アメリカと競合する力を持つ中国は大国となった。チェスでも指すように他の大国との関係を思い巡らすこともできるだろう。しかし、現実の戦争は思いがけない周辺部から始まってしまうことが多い。プーチン政権の始めた戦争が招いたユーラシア地域の不安定に中国は向かい合わざるを得ない。(国際政治学者)

*この文章は朝日新聞夕刊『時事小言』に2022年9月21日に掲載されたものです。