藤原帰一客員教授 朝日新聞(時事小言) 3期目確実視の習近平国家主席 共産党独裁の行く末は
中国共産党大会が始まった。習近平(シーチンピン)国家主席の演説に関する報道は、台湾に対する武力行使を辞さないという発言に焦点を置いていた。
中国による台湾侵攻はあってはならないから正当な報道なのだろう。中国の軍事行動を憂慮するのも日本だけではない。先にバイデン米政権の発表した国家安全保障戦略も中国との戦略的競合に重点を置いていた。
だが、3期目の国家主席就任が確実視される習近平が自画自賛としか呼びようのない演説を続け、会場を満たした参加者がそれを聞く光景を前に私が考えていたのは、武力行使のことではなかった。思い出していたのは、奴隷状態に置かれた市民における全員一致について、ジャン=ジャック・ルソーが書いた一節だった。
ルソーは『社会契約論』第四編において、「市民たちには自由も意志もない場合」は「恐れとへつらいが、投票を喝采に変えてしま」い、「もはや議論は行われず、崇拝するか、呪うかのどちらか」になってしまうと書いた(中山元訳)。テレビに映った中国共産党大会の姿は、まさに「恐れとへつらいが、投票を喝采に変え」た空間に他ならなかった。
習近平政権の10年は中国国民に共産党と習近平への忠誠を強制する時代だった。新疆ウイグル自治区における強制収容と国家安全法によって限られた自治も奪われた香港はその端的な例であるが、それだけではない。
共産党の独裁も忠誠の強制も今に始まったことではないが、胡錦濤(フーチンタオ)の時代までは、政府からやや距離を取る言論は存在した。党の統制をかいくぐるかのようにインターネットに書き込まれる政治批判もあった。強権支配ではあるとしても文化大革命の時代とは違うなどという言葉が、将来は抑圧が弱まるのではないかという希望を込めて語られる時代があった。
習近平はそんな希望、あるいは希望的観測を一掃した。中国経済が発展すると、それと逆行するかのように政治的閉塞(へいそく)が進行し、文化大革命の時代を想起するような政治的動員が復活した。中国国民は崇拝か呪いの二者択一を迫られてしまった。
中国による武力行使、特に台湾侵攻の可能性に中国国外の注目が集まるのは当然だ。ペロシ米下院議長の台湾訪問後に台湾を取り囲むように中国軍が大規模な軍事演習を行ったことは記憶に新しい。
だが、台湾侵攻は米軍との武力衝突を招く公算が大きい。ロシアのウクライナ侵攻のような自滅的選択に踏み切る政府がある以上その可能性は無視できない。しかし逆に、中国政府が台湾侵攻のような武力行使を行わない限り、どれほど中国の人権侵害への批判が高まろうとも、共産党支配を突き崩すような介入が中国国外から加えられる可能性は少ない。
ロシアではプーチン政権による政治弾圧ばかりかウクライナ侵攻も2014年から続いていたが、22年のウクライナ侵攻までの国際的圧力は弱かった。ウクライナを侵攻しなければプーチン政権が現在見られる国際的連帯と圧力にさらされることはなかった。
敗戦は政府の倒れる機会でもある。日本の軍国主義は第2次世界大戦の敗戦によって倒された。より自由な政治体制へのゆるやかな変化の見られた日本でも、昭和10年前後には政党政治の崩壊と独裁の進行が既に明確であった。その軍国主義体制に代わる政治体制は、日本国内の政治運動ではなく、敗戦と連合国による占領によってもたらされた。
敗色が濃くなったとはいえプーチン政権はまだ倒れてはいないが、開戦前に比べるなら政治的不安定が広がっている。勝ち目のない戦争に国民を道連れにすることで、プーチン政権崩壊さえ、可能性としては無視できなくなった。中国が大規模な武力行使を行えばウクライナ侵攻後のロシアに優に匹敵する国際的圧力に直面することは避けられない。当初は国内から支持されたとしても、台湾侵攻は共産党政権の終わりの始まりになるだろう。
では、戦争さえしなければ中国共産党の独裁が続くのだろうか。やはりそう決めつけるのは、誤りだろう。現代中国の矛盾は、市場経済を認めながら政治的自由を排除している点にある。どれほど盤石に見えたとしても強権支配の矛盾が表面化することは避けられない。
豊かさのために自由を犠牲にする必要はない。経済成長の果実を手にした中国国民にとって、共産党は国民の意志を体現する存在ではなく、恐れとへつらいを強要する過去の遺物に過ぎない。習近平政権が権力の集中を進めれば進めるほど、共産党独裁ではない中国への期待が高まることになるだろう。(国際政治学者)
*この文章は朝日新聞夕刊『時事小言』に2022年10月19日に掲載されたものです。