藤原帰一客員教授 朝日新聞(時事小言) ヒジャブ事件とパナヒ映画 弾圧に抗し続ける勇気
イラン国民、特に女性の勇気が示されている。
9月13日、22歳の女性マフサ・アミニがテヘランを訪れていたところ、ヘッドスカーフ(ヒジャブ)の着けかたが不適切だとの理由により、服装の戒律違反を取り締まる道徳警察に逮捕され、亡くなった。警察は心臓発作による死亡であると発表したが、警官の加えた暴力によって死亡した疑いが強かった。
アミニの故郷サッゲズで、アミニの死に抗議し、連帯のために自分のかぶったヒジャブを脱ぎ捨てる運動が始まった。運動は直ちにテヘラン、イラン各地、そしてイランの女性と連帯する世界各地に広がった。男性も少なくはないが、その中心はまだ若い少女を含む女性である。集まった人々は女性、生命、自由をスローガンとして繰り返し、さらに「独裁者に死を」と呼びかけた。
政府は極度の弾圧を加えた。インターネットを遮断しつつ力でデモ隊を追い払い、暴力を加え、逮捕する。情報が限られているが、人権NGOのひとつは政府の弾圧で少なくとも326人が亡くなったと伝えている。
アミニの死から既に2カ月が経ち、報道で取り上げられることも減った。しかし、反抗は続いている。反対したら弾圧される、いや、殺される可能性が高いにもかかわらず、イランの国民は街頭に出て、抗議行動を繰り返しているのである。ミャンマーの軍事政権など、反政府運動に仮借なき弾圧を加える政府は珍しくはなくなってしまったが、それでも死を賭して運動に加わる人々の持続力と勇気には驚かされる。
イスラム教の厳格な解釈と適用のためにイランの女性が迫害されていることは広く知られている。パーレビ国王の支配が革命で倒された後のイランには神権政治とも呼ぶべき体制が生まれた。対外関係ではイスラエルだけでなくサウジアラビアとも対立を続け、シリアとイエメンの内戦に介入し、さらにウクライナに侵攻したロシアに無人兵器ドローンを提供する。新聞やテレビの中に現れるイランは、国内では独裁を続け国外には戦争を厭(いと)わないという、国際秩序の安定を揺るがす存在だ。
ただ、外側から見るだけでは、イランに住む人たちの姿は見えてこない。だが、映画を手がかりにすることで、その社会に生きる人の姿を垣間見る機会を得ることができる。イランの反政府運動を前にして私が考えていたのはこれまでに見てきたイランの映画、特にジャファル・パナヒ監督のことだった。弾圧に屈することなくイランの女性の姿を伝え続けてきたからだ。
「白い風船」によって世界的な映画監督という名声を得たパナヒは、「チャドルと生きる」において女性がイランに生きる難しさを描いた。超音波診断では男の子のはずだったのに生まれたのが女の子だった、これでは娘が離縁されてしまうと嘆く出産女性の母から、娘を街角に捨ててしまう母親に至るまで、映画を観(み)た人は女性の苦しみを自分が経験したかのように共有するだろう。
パナヒは間違っても政治的なメッセージを第一に訴える政治的な監督ではない。「オフサイド・ガールズ」ではサッカーのワールドカップ出場のかかった試合を見るため、男のふりをして会場に向かう女性が登場するが、その女性たちはサッカーの試合を見たいだけで、特に反政府運動に加わっているわけではない。
だが、自由を奪われた社会を表現すれば政治的メッセージを伴うことは避けられない。イラン政府はパナヒの活動を弾圧した。作品の国内上映を禁止した上、イラン国外への渡航も禁止、さらに映画制作までも禁止してしまう。
それでもパナヒは映画づくりをやめなかった。「これは映画ではない」と題されながら映画としか呼びようのない作品、パナヒ本人が運転手を務める乗り合いタクシーをそのまま映像に撮ったという仕立ての「人生タクシー」、さらに革命後に映画女優として活動する機会を奪われた女性が影のように登場する「ある女優の不在」など、禁じられたはずの映画制作を続けたのである。
変革の希望が遠のいたためか、近作になるに従って声が弱まった印象はある。パナヒ監督もいまは収監され、映画表現の機会は奪われてしまった。情勢は厳しい。
それでも異議申し立ての声は続くだろう。専制支配に抗する女性が何を考えて行動しているのか、外から知ることは難しい。パナヒの作品に登場する女性たちは権力を前に泣き寝入りするのではなく、声を上げ続ける人たちだ。その表現を手がかりとしてイランの女性が直面する困難を知る意義は大きい。(国際政治学者)
*この文章は朝日新聞夕刊『時事小言』に2022年11月16日に掲載されたものです。