藤原帰一客員教授 朝日新聞 (時事小言) 高まる核使用リスク 抑止戦略、脱する一歩を
夏は平和を祈る季節だ。8月6日の広島、9日の長崎への原爆投下を思い起こす。広島の原爆死没者慰霊碑に刻まれているように、過ちは繰り返さないと誓い、犠牲者を追悼する。広島と長崎の被爆を柱とした戦争で失われた命の記憶が、日本における戦争の記憶の中心だった。
米ソ冷戦の時代には被爆体験の解釈に政党党派による違いが反映され、核廃絶に積極的姿勢を示したのは左派政党であった。しかし今では、広島・長崎の被爆の記憶と核兵器廃絶は党派を横断した国民共通の願いとなっている。
問題は、その願いがどのような政策と結びつくのかという点にある。核兵器が再び使用されることがあってはならないという点において国民的合意があるとしても、核廃絶のために必要となる政策については深刻な隔たりが残されているからだ。
隔たりの中核にあるのは、核抑止戦略に関わる判断の違いである。核抑止とは、核兵器による攻撃が加えられた場合に核兵器を使って反撃することを潜在的仮想敵国に伝え、その明確なシグナルを送ることによって相手による核兵器の使用を押しとどめる政策のことを指している。ここでは核兵器は廃絶すべき悪ではなく、相手による攻撃を阻むためには不可欠な選択として位置づけられる。
抑止戦略は核兵器保有国の間ばかりでなく、核保有国と同盟を結ぶ国によっても支持されてきた。自分は核を保有していなくても核保有国と結んだ同盟によって、核兵器による攻撃の抑止を期待するのである。
日本も例外ではない。核兵器が再び使用されることがあってはならない、核兵器は将来は廃絶されなければならないと呼びかけつつ、現時点では米国との同盟と、米国による核攻撃を含む抑止力の提供、拡大核抑止の強化によって日本の安全を保とうとしているからである。
2023年、岸田文雄首相を議長とするG7(主要7カ国首脳会議)がG7として初めて発表した核軍縮に関する共同文書は、将来の核廃絶と現在の核抑止をともに認めるものであった。
現時点における核抑止の強化が必要だとする判断には根拠がある。ウクライナ侵攻後のロシア政府は自国が核兵器を保有しているとの言及を繰り返した。台湾を始めとする周辺地域との緊張が続く中国が核を保有することもいうまでもない。潜在的仮想敵国が核を持つ以上、核抑止によって攻撃を未然に回避することは当然だと考える人もいるだろう。
だが、状況はもっと悪い。戦場におけるウクライナの劣勢を恐れたNATO(北大西洋条約機構)諸国は長距離ミサイルをウクライナに提供し、限定付きではあるが、ウクライナによるロシア領内への攻撃を認めた。ロシアによる核兵器使用の可能性を恐れてウクライナ支援を渋ればウクライナが敗北する危険があるだけに、核兵器で反撃される危険を冒してでもウクライナ支援を強化する選択が取られた。現在の戦況は一進一退だが、苦境に陥った場合にロシアが核兵器を使用する可能性は22年の開戦時よりも高まっている。
また、核保有国と核保有国との間の相互抑止と比較して、非核保有国の拡大核抑止、いわゆる核の傘は常に脆弱(ぜいじゃく)である。そこから導かれる一つの可能性は、核の傘に頼る非核保有国が、拡大抑止ではなく、自国の核戦力を開発・配備する可能性だ。
現在の日本政府が核開発を進めているとは私は考えない。だが、韓国においては、独自の核保有を目指すべきだという議論は従来も見られ、仮に韓国が核武装に向かった場合、日本においても核武装を進めるべきだという議論が高まることは避けられない。
米国の次期大統領にトランプが当選した場合、拡大抑止の信頼性はさらに大きく揺らいでしまう。韓国ばかりでなく日本でも独自の核保有が具体的な日程にのぼるのはその時だろう。そして、新たな核保有国の登場ほど国際政治の安定を揺るがす事件は少ない。
核廃絶を遠い将来の課題として先送りし核抑止に頼り続けるだけでは状況は変わらない。いま必要なのは、核兵器への依存と核兵器使用のリスクを減らし、将来の核廃絶に向けた一歩を進めることである。
それでは核廃絶のために取るべき具体的な選択とは何か。湯崎英彦広島県知事の呼びかけにより日米中豪ロなど各国の専門家を集めて2013年から開催されてきた「ひろしまラウンドテーブル」が取り組んできたのもこの課題だった。私が議長を務める今年の会議でも、核廃絶というビジョンを実現可能な現実とするための提案を試みてゆきたい。(順天堂大学特任教授・国際政治)
*この文章は朝日新聞夕刊『時事小言』に2024年7月17日に掲載されたものです。