藤原帰一客員教授 朝日新聞 (時事小言) トランプ当選、揺らぐ国際秩序 「力の均衡」の時代、再び
ドナルド・トランプが米大統領に当選した。既に覇権国アメリカを中心としてつくられた「リベラルな国際秩序」は揺らいでいたが、米国が覇権から後退し、国境の中の米国に戻ることによって、第2次トランプ政権のもとで米国が「リベラルな国際秩序」から離れ、国際関係がこれまでにない混乱に陥ることが避けられない。
米国は他の諸国を凌駕(りょうが)する軍事力と経済力によって世界の覇権国としての地位を享受し、政治的には民主主義、経済的には資本主義の普遍性を掲げ、その世界的拡大を求め、実現してきた国家である。その普遍主義が米国の利益に合致していたことは言うまでもなく、米国以外の諸国との間には力の格差が開いていた。米国は民主主義を唱えながら世界に権力を拡大するデモクラシーの帝国でもあった。とはいえ、民主主義と資本主義は世界の諸国から見ても受け入れることのできる観念だったことも否定できない。
「リベラルな国際秩序」とは覇権国の主導によって、国際関係における法の支配を実現するものであった。どの国であっても、この国際秩序に参加する機会は開かれていた。既に民主主義と資本主義を制度として実現した欧州や日本・豪州・韓国ばかりでなく、ロシアや中国も含め、民主主義と資本主義への転換を進めることによって「リベラルな国際秩序」の一員として迎えられるはずだった。
国家主権を中核として構成された伝統的な国際政治と異なり、「リベラルな国際秩序」は自由な市民社会を中核として構成される。仮に国内社会ばかりでなく国際関係においても法の支配が求められるとするならば、国家主権と内政不干渉によって国内における独裁や殺戮(さつりく)を正当化することは許されない。人権の普遍性によって国家主権を相対化する点において、「リベラルな国際秩序」は主権国家体系としての国際政治とは明らかな相違があった。
第2次世界大戦中のフランクリン・ルーズベルト、米ソ冷戦終結期のロナルド・レーガン、そしてビル・クリントンからバラク・オバマやジョー・バイデンに至るまで、「リベラルな国際秩序」の維持と拡大は歴代の米国大統領が対外政策の中心としてきた。だが、トランプは違う。国内においても法の支配に服することを拒み続けたトランプは、国際関係も権力闘争の領域として捉え、むしろ実力者支配を隠そうともしないロシア大統領プーチンや中国国家主席の習近平を優れた指導者として讃(たた)えてきた。
ここに見えるのは「リベラルな国際秩序」から「力の均衡」としての国際政治への転換である。大国の合従連衡を特徴とする力の均衡は少なくとも第1次世界大戦までは国際秩序の原型であった。トランプの下の米国は、世界を力の均衡の時代に押し戻そうとしている。
その端的な例が米ロ関係だろう。ロシアのウクライナ侵攻は明白な侵略行為であるが、トランプから見れば弱い国が強い国に逆らう不毛な抵抗であり、米国がウクライナを支援する必要はなく、ウクライナを頭越しにした米ロ交渉による休戦が模索されるだろう。米国以外のNATO(北大西洋条約機構)諸国はウクライナ支援の継続を模索するだろうが、米国抜きで戦争を支えることは難しい。プーチン政権にとって、西側諸国の結束を弱めるという年来の願いが実現することになる。
中国の習近平政権は、米国との対立関係にあるロシアとの軍事連携を強め、イラン、北朝鮮との関係も強化している。「リベラルな国際秩序」という視点ではなく力の均衡という視点から見ても米国の戦略的地位の脆弱(ぜいじゃく)化であり、米中の競合は避けられない。だが同盟国との連携を掲げてきたバイデン政権と異なって、トランプは米国と他国との協力に基づいた対中政策を想定していない。同盟ではなく関税の大幅な引き上げと米国単独の軍事的脅しによって中国への牽制(けんせい)が模索されるだろう。
だが、まさにトランプが国際協定や合意を顧みないからこそ、米国と競合する相手にとって取引の機会が生まれる。習近平政権から見れば、米国政府に、いやトランプ個人に十分な見返りさえ与えるならば、米国に台湾防衛を断念させることさえ期待できる。同盟の堅持を基本としたバイデンと比較するとき、トランプは中国にとって望ましくない交渉相手ではない。
力の均衡が支配する世界において小国の果たす役割は小さい。同盟を顧みないトランプ政権を前にした日本を始めとする米国の同盟国は、米国なき同盟を支えるか、独自防衛に走るかという選択に迫られてしまう。トランプ当選によって「リベラルな国際秩序」はガラスの城のように壊れようとしている。(順天堂大学特任教授・国際政治)
*この文章は朝日新聞夕刊『時事小言』に2024年11月20日に掲載されたものです。