藤原帰一客員教授 朝日新聞 (時事小言) 目を背けてきた戦争の犠牲者 侵略の現実を知る責任

第2次世界大戦の終結から80年を迎えた。国際政治の混乱が広がるなかで、戦争を忘れてはならない、忘れたならまた戦争が起こってしまうという訴えも続いている。
そのなかで、ひとつ気になることがある。私たちは、第2次世界大戦について、戦争の何を記憶しているのだろう。

思い出すのは、40年以上も前、大学院生の時にフィリピンに行ったときのことだ。日本人である私がフィリピンの人からどのように見られるのか、恐れる気持ちがあった。
第2次世界大戦の激戦地としてのフィリピンに関する私の知識は、大岡昇平の『野火』と『レイテ戦記』を読んで得たものがほとんどだった。そこに描かれた凄惨(せいさん)な暴力に衝撃を受けたが、フィリピン人によって書かれた戦争の記録はまだ読んだことがなかった。
知り合った学生の家に招かれ、その学生のおばあさんにお目にかかった。戦時中、日本軍兵士が何度も家を訪れた、いい人だったとおばあさんは話し、その兵士が教えてくれた曲をオルガンで弾いてくださった。「愛国行進曲」だった。
おばあさんの夫は憲兵隊に連行され、家に戻ることがなかったという。家によく来た兵士は夫を守ろうとしたと思うと私を気遣うかのようにおばあさんはつけ加えつつ、夫が連れ去られた日のことを話した。
おばあさんは、自分の夫を奪った日本軍への怒りを私にぶつけることはなかった。だが、日本軍の兵士にもいい人はいたと繰り返すおばあさんの言葉は、日本軍による侵略がおばあさんとその家族に加えた暴力と残された悲しみを伝えていた。
おばあさんの話を聞いているときに感じたいたたまれない思いを、私は忘れることができない。自分はこのおばあさんの悲しみを知らなかった、いや、知ろうとしてこなかった。自分が視野の外に置いてきたものを思い知らされる経験だった。
それからしばらくして、フィリピンの作家ショニール・ホセにお目にかかる機会を得た。作家であるとともに書店と出版社を営むショニール・ホセはいわば一代の知識人であり、米国の植民地支配、日本の侵略、そして独立した後のフィリピンの政治に対する批判を続けてきたが、日本人である私のことを日本軍と一体の存在として見なし、日本人とフィリピン人を対立関係に置くような言葉を使うことはなかった。ただ、自分たちがどんな経験をしたのかを日本人は知っていない、それをぜひ知ってほしいという願いが感じられた。
フィリピン人との出会いを通して、私は戦争でなにが起こったのか、知る責任があると思い、第2次世界大戦について自分の持っている知識を広げなければならないと考えるようになった。

もちろん日本において第2次世界大戦の犠牲が語られなかったということはない。だが、第2次世界大戦について日本で語られる記憶の多くは、広島と長崎への原爆投下を中心として、東京空襲、阪神空襲、そして沖縄戦など、日本人、それも多くは軍人ではない日本国民の戦争経験に集中している。そこでは日本国民のいたましい犠牲について広く語られることはあっても、日本国外の犠牲者について語られることが少なかった。日本における戦争の記憶は優れて選択的であり、視点が限られていた。
戦争を忘れてはならないと私たちが訴えるとき、将来の戦争を防ぐために戦争の記憶が大きな役割を果たしているという認識が背景にある。そして、日本国民の経験に限って戦争を語り伝えるだけでも、戦争が再び起こることを抑制する効果はある。『野火』や『レイテ戦記』の読者は、このような悲劇が繰り返されてはならないと胸に刻むだろう。
だがそれだけでは、日本の侵略によってフィリピンを始めとする東南アジア、あるいは中国においてどのような犠牲が強いられたのかは視野に入ってこない。
努力しなければ視野を広げることはできない。ここで必要となるのは、日本の外から戦争を捉え、これまで見てこなかった戦争の姿を知ることだ。私たちの多くは第2次世界大戦に従軍した経験を持たない。しかし、大戦後に生まれ、戦争について責任を負っていない私たちであっても、戦争について知る責任は負っている。
自分たちは戦争の何を記憶し、何から目を背けてきたのか。戦争を忘れないだけではなく、これまで目を向けてこなかった戦争の現実を直視することが求められている。(順天堂大学特任教授・国際政治)

*この文章は朝日新聞夕刊『時事小言』に2025年8月21日に掲載されたものです。