藤原帰一客員教授 朝日新聞 (時事小言) 動揺する安全保障 核のタブー、絶対破るな
私たちは戦争の時代を生きている。
第2次世界大戦終結から80年間、長期に及ぶ大国間の戦争は起こっていない。米ソ冷戦終結後には世界大戦は過去のものになったという期待が語られた。世界各国は戦争では核兵器は使用しないという規範、核のタブーを共有しているとする学説も唱えられた。
だが、ウクライナやガザでは戦争と大量殺人が日常であるかのように続いている。米ロ・米中の緊張が大規模な戦争となり、さらに核兵器の使用へと拡大する可能性も無視できない。
現在の国際危機を招いた直接の原因は第2期トランプ政権下における同盟の流動化であるが、トランプが戦争を始めたわけではない。その前にはウクライナ侵攻とガザ攻撃、そして米中対立の拡大があった。
バイデン前米大統領は、同盟国の結束によるロシアと中国に対する抑止力の強化を模索したが、ロシアのウクライナ侵攻の阻止に失敗する。さらに戦争拡大を恐れて攻撃力の高い兵器のウクライナへの提供が遅れ、戦争の長期化を招いた。中東では、バイデン政権はイスラエル政府によるガザ攻撃を抑えることに失敗し、ネタニヤフ政権の戦争拡大を支える結果となった。
西側諸国ではロシア、そして中国を軍事的脅威とする認識が共有されていたため、欧州でも東アジアでも軍事同盟が強化され、かつての米ソ冷戦のように国際政治が東西に分断された。イスラエルの戦争を後押しする欧米への反発が非西欧諸国の米国からの乖離(かいり)を生んだことも見逃せない。
国際政治の分断と軍事同盟の強化は戦争の危険を生み出すが、バイデン政権の目的は国際政治の現状と既得権の維持だった。ロシアへの対抗もイスラエル支援も従来の米国外交の延長線上から捉えることができる。米国が国際政治で果たす役割をバイデンが変えたとはいえない。
第2期トランプ政権によって米国の国際的役割は一転した。同盟国との協力に関心の乏しいトランプはウクライナへの軍事支援を渋り、ウクライナを頭越しにロシアとの協議を試みた。
欧州諸国は米国の軍事支援が不確実となったことに動揺した。ウクライナがロシアに敗れたなら、ロシアはフィンランド、バルト三国、ポーランドに侵攻する可能性が生まれるからだ。欧州では米国の戦略と別途に独自のウクライナ支援が進み、さらに米国に頼らない安全保障の模索も始まった。
西側同盟の基軸は米国の拡大抑止、いわゆる核の傘である。もともと拡大抑止は信頼性が乏しく不安定を免れないが、トランプはその不安定をさらに拡大した。英仏など米国以外の核保有国による傘が必要ではないか。核の傘ではなく独自の核武装を目指すべきではないか。欧州における核抑止の動揺に加えて、新たな核保有国の誕生、核拡散の可能性も生まれた。
東アジアでも対米不信が広がっている。トランプ政権の対中政策が不安定だからだ。米国は台湾防衛よりも米中の政治合意を優先するのではないか。米国による核の傘と安全の提供が信頼できないとき、中国・ロシア・北朝鮮という三つの核保有国に向かい合うことができるのか。既に韓国、そして被爆国日本でも、世論の一部には核武装を求める声が生まれている。
欧州と東アジアで同盟が流動化し、核抑止が不安定となり、軍備管理と軍縮の枠組みが脆弱(ぜいじゃく)化した。だが奇怪なことに、核兵器への依存はむしろ高まっている。核を放棄したウクライナがロシアに攻撃されたという「教訓」は、核抑止からの脱却ではなく核抑止への依存とその強化、さらに核拡散を正当化する要因として働いている。
他方、核兵器を制限する国際的な枠組みは弱まった。既に中距離核戦力(INF)全廃条約は失効し、新戦略兵器削減条約(新START)は延長交渉も行われないまま2026年に失効する。ウクライナの戦争が続くなかで米ロの核軍縮交渉を再開することは極度に難しい。
現代世界はこれまでになく核兵器に頼る安全保障への傾斜を深めてしまった。核兵器に頼る「平和」を唯一の選択として受け入れるとき、核タブーが破れ、実戦において核兵器が使用される可能性が生まれてしまう。
核兵器が安全を提供するという考えは幻想に過ぎない。独自の核開発は拡大抑止への依存を上回る国際的緊張を招き、国防を損なうことが避けられない。米国に頼る拡大抑止が信頼できないことはトランプ政権下の米国外交ひとつを見れば明らかだろう。
私はこれまで核抑止から脱却する必要を繰り返し訴えてきた。抑止は破綻(はたん)する可能性があり、抑止の破綻は核戦争を意味するからだ。核の使用だけは、絶対に、あってはならない。(順天堂大学特任教授・国際政治)
*この文章は朝日新聞夕刊『時事小言』に2025年9月17日に掲載されたものです。