藤原帰一教授 朝日新聞(時事小言)パンデミックと経済危機 先進国に打撃、想定外

 新型コロナウイルスの流行が世界を変えてしまった。
 第一の変化は、人の移動の規制である。人の集まる催しは中止し、外国からの入国の多くを禁止する。グローバリゼーションは国境を越えた資本と人の移動を促してきたが、人が移動すれば感染症も拡大してしまう。欧州連合(EU)における人の移動の自由化を進めてきたドイツさえ国境規制を開始した。グローバリゼーションの進行はコロナウイルスによって破壊された。
 パンデミック、すなわち国境を越える感染症の広がりは、古くはペスト、スペイン風邪、最近ならエボラ出血熱、SARS(重症急性呼吸器症候群)やMERS(中東呼吸器症候群)などいくつも例があるが、今回のコロナ危機のように短期間かつ世界的に感染者が増加した例は少ない。グローバリゼーションがパンデミックを拡大し、パンデミックへの対抗がグローバリゼーションを突き崩すという構図がここにある。
 世界的な感染症拡大の可能性はこれまで繰り返し予告されてきた。既に2005年、世界保健機関(WHO)の主導によって国際保健規則(IHR)が改正され、国際的疾患拡大への対処が明記された。19年9月にはWHOや世界銀行などのつくった世界健康危機モニタリング委員会(GPMB)が報告書を発表し、感染症拡大は5千万から8千万人の生命を奪い、世界経済は5%後退するだろうと予測した。

 もっとも、パンデミックの影響は発展途上国において厳しいと予測されていた。GPMBの報告書は、パンデミックのもたらす経済的損失に対する脆弱(ぜいじゃく)性が高い国と低い国とを区別し、中国は中位の脆弱性とする一方、日本、韓国、イタリア、フランス、スペイン、アメリカはすべて、GDPの低下が0・0から0・5%にとどまる脆弱性の低い国に分類している。パンデミックの影響は世界に及ぶが、その主要な犠牲が発展途上国に集中するものと想定されていた。
 だが、コロナウイルスは、罹患(りかん)者が地域的に限定されたエボラ出血熱、SARSやMERSなどと異なって、欧米や日本など、健康危機に対処する保健衛生体制が整っているはずの先進諸国を直撃した。これが第二の変化、すなわち世界経済の全面的後退が生まれる理由となる。
 現在の先進諸国の経済は、金融緩和、超低金利、さらに日本銀行による株式買い入れを始めとした異次元の市場介入によって支えられているといっていいだろう。金融政策によって株価を支え、長期のデフレを回避する政策である。実際、トランプ政権の下でアメリカの株式市場は活況を呈し、今年2月中旬にはダウ平均株価が3万ドルに接近した。だが金融緩和を行っても市場が収縮し、景気を支えることができなくなれば、デフレ・スパイラルに陥ってしまう。先行き不安に対して現代経済は思いのほか脆弱なのである。

 世論と株価に敏感なトランプ政権は、コロナ危機を前にしてまず中国との渡航を制限し、米国への感染拡大は阻止されているなどという発言を繰り返し、感染が広がると大規模な財政支出と金利引き下げを表明した。だが市場の反応は鈍く、株式市場の下落を防ぐことに成功していない。原油価格の低下への懸念とパンデミックの与える経済的打撃への懸念のために、いくら金利を引き下げ、財政支出を拡大しても効果がない。金融緩和に頼るデフレ回避の限界が露呈している。
 より広くいえば、コロナ危機は、リーマン・ブラザーズ破綻(はたん)に始まった08年の世界金融危機以来の世界経済の後退の引き金となった。景気後退を続けてきた中国は米中貿易紛争に続いてコロナウイルスの打撃を受け、1~2月の中国における工業生産は前年同期に比べ13・5%減であったと発表されている。金融緩和に頼る景気浮揚の限界に加えて中国経済の後退が世界的な経済危機を招いてしまった。
 ではコロナウイルスの流行が終われば経済は回復するのか。ムニューシン米財務長官はテレビの取材に対して新型コロナウイルスの経済に与える影響は短期的なものだとして景気後退を招く可能性を否定したが、賛成できない。問題はウイルスの流行だけでなく、金融緩和に頼る市場の脆弱性にあるからだ。仮にウイルス感染拡大の阻止に成功したとしても、金融緩和によって世界経済を再生することは難しいだろう。
 ウイルス危機への対処で特徴的なのは、各国がそれぞれ国境防衛と独自の金融緩和に走り、国際協力の枠組みが見えないことだ。3月17日になって主要7カ国(G7)首脳はようやく共同声明を行ったが、内容は各国が既に採用した政策と違いが少ない。パンデミックがこれまでにない世界経済の後退を招こうとしている。(国際政治学者)

*この文章は朝日新聞夕刊『時事小言』に2020年3月18日に掲載されたものです。