藤原帰一教授 朝日新聞(時事小言)コロナで変わる世界 民主主義、守るためには

 世界を席巻した新型コロナウイルスの流行に収束の兆しが見えてきた。新しい生活様式などという言葉も用いられるいま、コロナ後の世界について考えてみよう。
 第一に挙げなければならないのが経済への打撃である。ウイルス感染を防止する目的から各国政府の踏み切った人の移動の規制とロックダウンは、運輸・観光はもとよりサービス業や小売業に壊滅的な打撃を与えた。リーマン・ブラザーズ破綻(はたん)に始まる世界金融危機と異なって株の暴落は現在のところ必ずしも起こっていないが、失業は各国で急増した。ウイルス感染が収束しても雇用の回復は容易ではない。
 製造業のグローバルなサプライチェーンも寸断された。ロックダウンのもとで貿易よりも国内市場が重視されたこともグローバル経済の連携を著しく弱めた。既に反グローバリズムの運動は世界に広がっていたが、コロナウイルスはそのような運動を凌駕(りょうが)する打撃をグローバル経済に与えた。
 コロナ後の世界では、世界大国の政治的緊張も加速することになるだろう。対立の中心はアメリカと中国の関係である。ウイルス感染のはじまりとなった中国は感染の収束も比較的早く、ポストコロナの世界でこれまで以上の力を振るおうとしている。
 他方、コロナウイルスによる死者が約10万人に達したアメリカでは、トランプ大統領が感染源としての中国の責任を厳しく訴えている。トランプ政権の対中貿易制限によって、ただでさえ緊張の増してきた米中関係がコロナ危機によって一気に加速した構図である。危機への対処の失敗を問われる立場に置かれたトランプ氏が、大統領選挙を控えて政治批判の矛先をかわそうとしていることも無視できない。
 全国人民代表大会(全人代)に合わせて開かれた記者会見において中国の王毅(ワン・イー)外相は、コロナウイルス感染の責任追及に反発し、アメリカでは中国への誹謗(ひぼう)中傷という政治ウイルスが拡散していると述べた。その全人代において中国政府は国防費6・6%増を決める一方、国家安全法案を提出して香港への締め付けを強め、トランプ政権の反発を招いた。これが悪罵の応酬だけで終わる保証はない。

 経済危機も米中対立もそれだけで大きな課題である。だが、私はここで異なる問題を提起したい。コロナ後の世界における民主主義の行方である。
 コロナ危機への各国政府の対応は人権への制約を伴った。国外からの入国の拒否、国内における人の移動への制限、家から出ることを阻むロックダウンから商店の営業規制に至るまで、コロナ対策として採用された数々の政策が個人の自由を奪うものであったことは否定できない。
 スマートフォンの個人情報を掌握することなどによって人の移動を追いかけ、規制する動きも広がっている。中国によるウイルス感染拡大の防止はAIを駆使した新しいサーベイランス、監視技術を活用することによって実現したのである。
 ウイルス感染を阻止する緊急手段としては短期的な人権剥奪(はくだつ)もやむを得ないかも知れない。だが、危機が収束しても統制がなくなるとは限らない。そもそも中国政府による国民監視は短期的手段というより国家制度と呼ぶべきだろう。武漢のロックダウンも香港における人権抑圧も、そこで用いられている監視技術は共通している。
 新技術によるサーベイランスは中国に限ったことではない。民主主義国においても、これまでなら全体主義の特徴と見られたような国家による個人情報の収集と監視が行われているからだ。『ホモ・デウス』などの著作で知られるユヴァル・ノア・ハラリは、英紙フィナンシャル・タイムズへの寄稿において、コロナ危機への対応では新しい監視技術による情報集積が用いられていることを指摘し、短期的な緊急措置が日常となってしまう危険に警鐘を鳴らした(3月20日付)。
 この文章でハラリは、いま問われているのは全体主義的な統制か市民のエンパワーメントかという選択であると述べている。厳しいが、私にはしっくりくる言葉だ。危機管理を達成するために自由と民主的な統治が犠牲にされてしまう危険がある。

 では、どうすればよいのだろうか。政策選択に関する自由な言論なしには私権の制限を認めることはできないと私は考える。権力を担う者は、私権を制限する根拠を国民に明示し、国民の判断を求めなければならない。
 自由を奪う前提は自由な統治の保障である。この前提を取り払ってしまえば、緊急事態に取られた非常手段が長期的な権力集中をもたらし、市民社会の自律性は失われる。コロナ後の世界を自由の終わりにしてはならない。(国際政治学者)

*この文章は朝日新聞夕刊『時事小言』に2020年5月27日に掲載されたものです。