藤原帰一教授 朝日新聞(時事小言)長すぎる不公正へ抗議 人種越え、新しい連帯

ミネソタ州ミネアポリスで、黒人男性ジョージ・フロイドが警官の暴力のために亡くなったあと、デモや抗議集会が全米各地でわき起こった。連日報道を見るなかで、胸をつく場面がひとつあった。
日本時間6月2日夜半、前夜の略奪のあと店先に打ち付けられた板が見えるマンハッタンの街頭で、ブラック・ライブズ・マター、黒人の命は大切だ、というスローガンとフロイドの最後の言葉「息ができない」を連呼するデモ隊が警察と向かい合うなか、デモ隊から警官隊に向かって何かを投げつける映像が映った。
そのときデモ隊のなかからひとりが前に出て、警官ではなくデモ隊に向かって、しゃがめ、ひざまずけと叫んだ。一瞬のあとデモ隊も膝(ひざ)を折ってひざまずき、力によらない抗議、ピースフル・プロテストと互いに呼びかけた。
このあと警官隊が押し寄せて、デモ隊もCNNのチームも後退する。たまたまテレビカメラが捉えた瞬間がどこまで全米各地の抗議行動を代表するものだったのかはわからない。それでも、ここに表れた、手段を選ばずに権力に立ち向かうのか、それとも暴力に訴えない運動に徹するのか、その選択は決定的といっていいほど重要だ。

ミネアポリスで起こった事件は決して初めてのものではない。2014年にミズーリ州ファーガソンでマイケル・ブラウンが警官に射殺され、1992年にはロサンゼルスでロドニー・キングに暴力を加えた警官が無罪となった。現場の映像が共有され、抗議する集会が一部では暴動と略奪に向かったところもミネアポリス事件と共通している。
またアフリカ系のアメリカ国民が警官の過剰な暴力の犠牲となった事件として、これは氷山の一角に過ぎない。ミネアポリス、ファーガソン、ロサンゼルスの事件は、現場を捉えた映像が流されデモや集会に発展した点で、特異な例だとさえいえるだろう。
だが、今回の抗議運動には従来と大きな違いがある。これまではデモも暴動も事件の起こった都市を中心としたが、今回は警官への抗議がニューヨークやロサンゼルスを始めとした全米各地、さらにロンドンから東京まで世界諸都市に広がった。フロイドの死を自分のものとして受け止め、異議申し立てを行う人々が、事件の起こった都市を越えて連帯したのである。
そして担い手がアフリカ系だけでなく、白人もヒスパニックも数多く加わっている。6月2日のマンハッタンのデモに加わった人々にも人種を越えた広がりがあった。
ここで語られている正義は黒人の正義ではなく、人種を越えた正義である。肌の色が黒いために警官に粗暴な暴力を加えられるという人種の違いに起因する不正は、肌が黒くない人にとっても不正だが、それが建前ではなく、広汎(こうはん)な異議申し立てに展開し、フロイドの死から3週間以上経っても続いている。これまでの「人種暴動」と異なるところだ。

では暴動はどう考えるか。黒人はいつも怒っている、機会があれば暴動を引き起こすなどという思い込みは人種偏見に過ぎないが、それでも今回、暴動や略奪は起こった。私も人種による不公正に反対する運動に共感しつつ、運動が非暴力から暴動に転じることを恐れていた。暴動になれば法と秩序の名の下に力によって市民的不服従が押さえ込まれ、結果として不公正が長続きしてしまうからだ。
私はキング牧師とともに不公正への怒りを訴えた作家ジェームズ・ボールドウィンのことを考えていた。「もう一つの国」などで知られるこの作家は、エッセイ「次は火だ」刊行とともに公民権運動の中心のひとりとなる。キング牧師は暴力に頼ることのない市民的不服従を訴えたが、そのキング牧師は暗殺され、アメリカ各地で暴動が起こった。混乱のあとも人種による不公正は残された。未完原稿に基づくドキュメンタリー「私はあなたのニグロではない」にはボールドウィンの公民権運動の限界への苦い思いがあふれている。
だが、歴史は繰り返さないのかも知れない。今回トランプ政権はデモに対し強硬措置を求めたが、それに対する反発は暴力ではなく非暴力不服従の拡大を生み出した。いったんは広がった暴動や略奪はほぼ収束し、人種による不公正と警察への抗議は非暴力に徹することによって人種と地域を越えた広がりを獲得した。1960年代末ではなく60年代中葉、キング牧師の主導したセルマ大行進のような展開だ。マンハッタンの街角のピースフル・プロテストはその一例である。
怒りは正当でも憎悪と暴力には未来がない。長すぎた人種不公正を人種の壁を越えて改める機会が生まれている。(国際政治学者)

*この文章は朝日新聞夕刊『時事小言』に2020年6月17日に掲載されたものです。