藤原帰一教授 朝日新聞(時事小言)トランプ政権の4年間 何が壊されたかに目を
11月3日、アメリカで大統領選挙が行われる。現状ではトランプ大統領再選が難しい形勢だ。アメリカ全国の支持率では、民主党候補であるバイデン前副大統領に10ポイントほど離されている。
米大統領選挙は投票総数ではなく州ごとの選挙人獲得数によって決まるが、バイデンは前回2016年選挙ではトランプ候補が勝利を収めたウィスコンシン州やミシガン州でトランプを引き離し、フロリダ州でも僅差(きんさ)ながら優位に立った。支持率に大きな変化が見られないことが今回の選挙の特徴であるが、現状のまま推移すればバイデン候補が勝ち、議会についても下院のみならず上院も民主党多数という結果が見込まれている。
とはいえ選挙だけに結果はどうなるかわからない。世論調査に基づいて選挙を予想するサイトFive Thirty Eightはバイデンが勝つ可能性を88%と推計しているが、逆にいえばトランプが勝つ可能性も12%はあるわけだ。前回選挙において優位と見られたヒラリー・クリントンが敗北したこともあり、民主党陣営はバイデン勝利の予測に走ることを戒めていると伝えられる。16年選挙の敗北がそれだけ傷を残しているということだろう。
私も選挙結果を予測することはできない。だが、トランプ政権の4年間が世界にとってどのようなものだったのかを考えることはできる。
まず、トランプ政権の成果はあったのか。ある、中国を抑え込んだという答えがあるだろう。ほんとうだろうか。
トランプの対中政策の重点は貿易だった。関税を手段に使った貿易圧力は自国にも打撃を与えるが、それを置くとしても、この4年間で中国の軍事戦略が変わったとはいえない。
そのなかで中国の台頭はさらに進んだ。オーストラリアのローウィ研究所がこのたび発表した20年度アジア・パワー指数は、アメリカが1位を占めるとはいえ総合力でも軍事力でも後退したことを示している。経済後退の主な原因は新型コロナウイルス流行だが、トランプ政権の無策が感染拡大を招いただけにコロナのせいにはできない。しかもコロナ危機をいち早く脱しつつある中国は世界経済における比重をいっそう高めた。トランプが中国政策で成果を上げたとはとても言えない。
成果がない一方、トランプ政権が破壊したものは多い。アメリカ国内では大統領自ら民族・人種・性別による偏見を表明してマイノリティー迫害を助長し、批判を受けるとウソのニュースだと強弁した。利益相反の疑いを押しのけて家族の運営するホテルやゴルフ場を率先して使い、アメリカへというよりトランプ個人への利益誘導を続けた。人種差別も政治腐敗も所得格差の拡大も初めてのことでないが、これほどあからさまな国民統合の破壊と権力の乱用を見ることは珍しい。
国際関係も破壊した。地球温暖化に関するパリ協定の離脱、NAFTA(北米自由貿易協定)の一方的破棄と改定強要、WHO(世界保健機関)離脱などはそのわずかな例に過ぎない。従来、国際機構や協定はアメリカにとって対外政策の用具であり、他の諸国にとってはアメリカを制度のなかに抑え込む手段でもあった。だがトランプのアメリカは束縛から解放を求めるように国際協定や国際体制から離脱を繰りかえした。
なかでも深刻なのは米欧関係だ。トランプは、ロシアのプーチン大統領と親密な関係を保つ一方で、NATO(北大西洋条約機構)諸国には駐留米軍削減と同盟脱退を脅しに使うかのように国防費増額を求めてきた。その結果としてアメリカとヨーロッパ諸国の関係は第2次世界大戦後で最悪の状況にある。
アメリカの政治学者ジョン・アイケンベリーは新著『A World Safe for Democracy(民主主義に安全な世界)』において、19世紀世界における起源、ウッドロー・ウィルソンの国際主義とフランクリン・ルーズベルトのそれの対照、さらに第2次世界大戦後にアメリカの覇権のもとでつくられたリベラルな国際秩序の素描を試みている。アイケンベリーはアメリカの覇権が国際制度のもとで制御され、各国との協力を可能としたと論じている。
これまでにも覇権とリベラルな秩序との微妙な均衡は揺らいできたが、持ちこたえてきた。だが、トランプ政権の下で、アメリカは自らが築いたリベラルな国際秩序から降りようとしている。その危機感がこの著作にリアリティーと切迫感を与えている。
一方にトランプ政権、他方に中国の台頭を置いて見えてくるのは秩序ではなく権力闘争だけの世界である。トランプ後の世界を考える前に、何がどこまで壊されたのか、目を向けなければならない。(国際政治学者)
*この文章は朝日新聞夕刊『時事小言』に2020年10月21日に掲載されたものです。