背景
EBMから派生したEBPMは、政策目的を明確化したうえで、研究によって得られたエビデンスを実際の政策(policy)やその立案・実践・検証(practice)の基盤とするという考え方です。この考え方の背景には、それまでの政策が根拠に裏付けられていない、という事実があります。そのため、エビデンスの創出が進められてきました。しかしながら、エビデンスが蓄積されても、それが実社会で思ったように実装されないという問題が生じ、実装科学(implementation science)が注目されています。
私たちが研究で重視していることは、疫学的にその効果が明らかである予防医学的な介入策が、どのようにしたら実社会で実現されるかを解明することです。臨床医学でのエビデンスの実装は、専門家が参照するガイドラインや制度で規制することで、ある程度実現されます。一方、私たちが対象としている地域および職域での予防医学的な介入策は、ステークホルダーが多く、行為主体も規制されるわけではないため、実装はより困難です。また、エビデンスを作る側にも課題がありました。例えば、健康というアウトカムに対して、要因(リスク)を探索する研究が主であり、要因を変化させることを主眼とした研究は乏しいと言えます。例えば、食塩の過剰摂取は高血圧症と脳卒中の要因であるのは明らかですが、普段の生活の中で減塩を進める方法に関する検討は少ないということです。
また、わが国では、そもそもエビデンスを基礎として政策が立案されることは稀です。このような環境下では、政策が実施された後に政策の効果を検証し、修正や実行を停止(de-implementation)するというアプローチが求められます。言い換えれば、対象に寄り添い、PDCA(Plan-Do-Check-Act)の観点から効果を検証し、改善するというアクション・リサーチ的な関わり方が必要です。
予防医学的な介入策の実装に関する検証
データヘルス研究ユニットでは、上記のような背景のもと、データを活用した予防医学的な介入策(医療保険者が実施するデータヘルス計画)を主な対象とし、政策が実行される要件に焦点を当てた研究を行っています。具体的には、職域では、特に個人の健康(メタボリックシンドロームの該当)の変化が職場そのものに依存すること(Kakinuma et al., 2019)や、電子的ツールの継続利用が健康度の改善に関連すること(中尾 ほか, 2020)を同定し、従来、施策の対象者の意識の問題として位置づけられてきた予防介入施策の実施率を高める要素を抽出しました(濱松 ほか, 2021)。しかし、このような研究を進展させるためには、組織(保険者)の属性、保険者が行っている施策とその成果などのデータを体系的に取得する必要があります。個人レベルのデータのみを分析したとすれば、個人が所属する組織という集団が個人に与える影響を捉えることができません。集団レベルでの特徴や環境と個人レベルでのデータを統合したうえで、精緻な実証研究を行うことも重要です。
そのために医療保険者からデータを継続的に取得する枠組みを構築する必要があります。職域保険(健康保険組合)に対しては、厚生労働省の補助金を用いてデータヘルス計画を標準化するツール「データヘルス・ポータルサイト」を開発しました。現在、健康保険組合では、ほぼすべての組合でデータヘルス・ポータルサイトが活用され、データが収集されています。地域保険(国民健康保険)ではデータヘルス・ポータルサイトのようなプラットフォームは未だ存在しませんが(古井 ほか, 2019)、データを構造化して取得するための共通の枠組みを開発し、これまで10都県に適用しています。(2022年9月現在)
今後も横断研究から得られた要素を手がかりとして、介入型の研究も実施し、さらに科学的にレベルが高いエビデンスを蓄積します。なお、これまでの活動ではデータを取得するための基盤整備にも相当の労力を費やしてきましたが、2022年7月にデータヘルス・ポータルサイトを社会保険診療報酬支払基金に移管したことで、分析に注力できる環境を整えました。
測定、評価の基盤整備
そのほかにも、データを用いた予防介入の効果検証を行うための基盤となる研究を実施しています。超高齢社会における人材不足や労働生産性の低下といった社会課題を背景に、国策として企業による社員への健康投資が推進されてきましたが、健康投資による影響や効果を簡便に測定する指標が必要でした。そこで、データヘルス研究ユニットの前進である健康経営研究ユニット(2012~2017年)が提案した、社員の健康/体調不良に伴う労働生産性の損失を測る指標(the Single-Item Presenteeism Question, 東大一項目版)について、その妥当性等の検証を行いました(Muramatsu et al., 2021)。現在、この指標は国が運用する健康経営優良法人認定制度にも採用されています。
また、医療費データを用いて予防介入の効果検証をすることがありますが、これまでの医療費分析では請求上の傷病名による機械的集計に留まっていました。どのような疾病にどれだけの医療資源が投入されているかを把握するため、われわれは傷病別に医療資源の投入量を分配する手法を開発しました(Hiramatsu et al., 2022)。実社会での応用の可能性として、治療・予防介入の費用対効果の測定、終末期医療に代表される医療資源の配分状況の可視化に適用可能です。
これらの指標や手法の開発は、予防介入の効果検証を行うための基盤となる業績であり、今後の研究活動の礎となります。
教育活動
データヘルス研究ユニットでは、学術的な成果を踏まえた教育活動を学術研究と一体的に推進してきました。医療保険者に対しては、健保組合向けには2018年より「データヘルス・ポータルサイト」を通じた研修を、国民健康保険(都道府県)には2020年から「都道府県向けリーダーシップ・プログラム」を提供しています。また、データヘルス計画策定の手引書や健康経営を促す教科書、小学生向け生活習慣病予防の手引書等を執筆しました。「データヘルス電子講義(全8章)」はweb公開をしています。実務家に対する教育は、実証研究を進めるための重要な基盤となっています。
また、これまでの医療保険の枠組みでは、成人向けの健康教育や保健指導しか提供されてこなかったことから、データヘルス研究ユニットは子ども向けの教育活動を開始しました。小学校の保健の授業でデータヘルス計画を副教材として適用し、生活習慣病予防教育を実践するプログラムと、健保組合を通した被扶養者(小学生)への「子ども健保だより」の開発です。
東京大学の医学部および大学院(公共健康医学専攻)の授業でも、学術成果を学部生および大学院生に共有しています。